3日間で1番激しい雨が降っている。
夫のお墓に行こうかと思ったが、とても行けるお天気ではなかった。
昨日の夫との交換日記を読んで、一番感動した文章を2編残しておきたい。
「交換日記のはじまり」(1971.1.2~10.22)
1971年1月2日 夜
我が思いは 御岳へ
なんと長い一日であろうか
1971年1月3日
おもいは はせる なんと重い空気だ いきがつまりそうだ
なぜおもいははせるのか なぜこうまていきがつまりそうなのか
早く帰って来い おもいきり だきしめたい
力強くお前を 抱きしめたい
(私が初めての冬登山に出かけて、帰って来た時に見せられ、プロポーズしてくれました)
1971年5月26日(水)晴
昨日は遅くまで話し合えて良かった。
いろいろな意味で和子の両親が、いろいろと考えてることは大きな収穫であった。
心配されていることは、よく分かるが、認識不足から、来ている面も多分にあるので、話し合いの場をもっと持つ必要がある。
部屋に帰ってから、考えてなかなか眠れなかったが、このことは会ってから話す。
只一つ腹わたがにえかえる思いをしたことがある。今でも頭からはなれないが。
和子には分かるかな。いや気がついたかな。
おそらく気づかなかったと思うが、俺自身笑って「ルンペンプロレタリアと僕達は言っている」とヒニクって言ったけどが。
「ルンペン」と言われれば、たしかにそうだろうけど、この言葉の意味、ひびきはなにを言うものか分かるだろう。
人をバカにしたたぐいのものだ。
俺はそれを和子の母から、これから俺の少なからず、どうあれ親になる人から言われたのだ。
俺の今の気持ちは、しょげていない。意地でも立派にやって、みかえしてやるぞというきでいるが、一面では情けなくなる気もある。
自分自身に情けなくなってるのではなく、和子の母にだ。
こんなこと位は気にすることはなく、笑ってすごせばそれですむことてあるだろうが、
そうなるまでは時間が少しかかる。
すくいがたいことは、俺自身バカになれる才能を持っていることだ。
和子!どうなれ やるぞ。やれるんだ俺達は。
(今、無性に和子をだきしめ、俺の気持ちを肌でつたえたい。ノートでは実にじれったい)
みなと労山の会長と結婚のお願いに行った時の母の言葉でした。
こんな日記を46年振りに読むと、夫のことを思い出して涙が出てくる。
やっぱり生まれ変わってもまた一緒になりたいなあ。
母は、母にとっては長女の私が、会社からクビを切られて、労働組合で反対運動をしている人が、娘をほしいと言ってきたことなんて信じられないのでしょう。
でも、長男が喘息で苦しんでいるのを知って、少しでも空気のいいところにということで、佐屋で一緒に住むようになって、母も夫のやっていること、人柄を認めてくれました。夫も母を最後まで一番気にかけていた人でもあった。
今日の万歩計は、3,453歩でした。