日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

晴耕雨読の雨読の日

2012年06月18日 | インポート
雨天のために仕事は休みだという電話連絡が入ったのが朝の7時少し前。

晴耕雨読の雨読の日となった。

大村市竹松遺跡の発掘アルバイト作業員の仕事が、本日は雨のために中止となり、自宅での自由な時間を持つ事が出来た。

大村市のホームページを見ると、大村市は遺跡の宝庫のようで、かなりの区域で遺跡の存在が確認されているようだ。

遺跡があるという事は、古来よりその地域で人が生活していたことを意味する。

自給自足で生活するための自然環境が整っていた地域には多くの人が集まり、集落を形成していったであろう事が推察されるが、大村市の地形や地理的環境を含めた自然環境は、古代の人々にとっては、まさにそのような地域であったのだろう。

多良岳の山塊からは、河川を通じて充分な水が供給され、それらの河川の裾野に広がる扇状地には、耕作可能ななだらかな傾斜の肥沃な土地が広がり、更に大村湾に繋がり、海産物の入手も容易であったのだろう。

多良岳の山塊では、豊富な動植物の狩猟や採集にいそしんだであろうし、その山塊にて蓄えられた水は河川となって水を供給して、飲料水やその他の生活用水や農業用の灌漑用水として利用されたのであろう。

また、河川の水を直接汲んで利用しなくとも、緩やかな傾斜の扇状地では、井戸を掘ると、比較的容易に伏流水の層に当たり、住居の近くにて水を確保することも容易であったであろう事が推察できる。

さらに、調味料としての「塩」や、食糧保存のための「塩」も、大村湾の海水にて調達できたであろう事が推察できる。

その他にも、大村湾からは魚貝類や海草も入手できたであろう。

私たちが、アルバイト作業員として発掘作業をしている竹松遺跡の近くを流れている郡川(こおりがわ)は、古来より流路を変えながら、現在の流路になっているという事だ。

インターネットにて公開されている最近の航空写真を見ると、私たちが発掘作業をさせてもらっている区域の近くには、郡川の旧流路とおぼしきパターンを見つける事が出来る。

畑の畦ハンの形状からそれは判読できるが、蛇行していた流路の急カーブの先端部分が、長年の流水方向の変化により流路が遮断されて三日月湖になり、その区域を農地として利用しているのであろうことが類推できる。

人工的にそのようになったのか、自然にそうなったのかは分からないし、いつ頃の年代にそうなったのかは分からないが、郡川の流路の変遷が推察できる。

私たちが発掘作業をやらせてもらっているのは、そのような、郡川の上流部から下流部を向いて見て右カーブしている旧流路の先端部分の左岸側(上流から下流を見て左側)の南側という事になる。

話は変わるが、私たちが住んでいる日本の国土の航空写真の画像は、昭和20年代前半のものが一部の山岳地帯を除いてほとんどそろっている。

主要な鉄道沿い等に関しては、撮影縮尺およそ1:16,000で、その他の区域に関しては撮影縮尺およそ1:40,000で撮影されている。

撮影カメラレンズの焦点距離がおよそ152mmだから、それぞれの撮影高度は、およそ2,400mと6,100m程度である。

それらの航空写真は、戦後駐留した米国極東空軍が、我が国を統治するための資料として撮影した物だが、現在はそれらの航空写真画像情報は我が国に移譲され、国土交通省国土地理院が管理し、日本地図センターにて販売されている。

お金さえ出せば誰でも購入する事が出来る。

印画紙やフィルムに焼き付けたものの入手はもちろんだが、最近ではそれらの原画像をスキャナーでスキャンしているので、デジタルデータとしても入手できるようになっている。

その他にも我が国では、昭和30年代以降に、国土基本図や地形図の作成を目的として、地域を決めて周期的に国土の航空写真撮影が実施されており、それらの情報は、お金さえ出せば誰でも入手する事ができるようになっている。

そのような過去の航空写真画像を用いて、過去の現況地形などを復元図化することも可能である。

長崎市内のトンネルの上にある山の頂上付近に、水の本城という山城があったそうだが、その発掘作業に先立って、昭和20年代前半に米国極東空軍が撮影した航空写真画像を用いて、その区域の開発前の地形を図化した事がある。
                                                                              戦後間もない頃の低地の山は、食糧増産のために畑として開かれていたので、山肌の地面が航空写真に写っており、等高線を追跡描画するのに好都合だった。

昭和29年生まれではあるが、自分が生まれる前の戦後間もない頃の状況を、三次元空間の中で見ることも出来る。

今、そこには大きな高層マンションが立ち並んでいるが、水の本城の石積みなどの調査記録は、役所のどこかに残されているはずである。

各種の開発行為に伴って実施される埋蔵文化財の発掘調査は、どのように科学技術が進歩しても、人力で少しずつ掘り下げながら実施するしかなく、そのおかげで職にありつけている。

ただ、このところの雨模様で、発掘現場の構造上、発掘した区域には雨水が溜まっているだろうし、それらの水のポンプによる強制排水も、地元の周辺耕作者の方々の水利権とのからみもあり無理だろうから、梅雨時には雨読の日が増える事はやむをえないだろう。


豊田一喜