4月4日(日)曇り
川越城中ノ門堀跡公園がオープンしたと聞いたので自転車で探索に行ってみました。前日に城周りを歩いたときに探したのですが見あたらなかったのです。
意外なところにありました。市役所からほど近い道路脇です。
中ノ門堀跡公園 http://kuwabara03.blogspot.com/2010/03/201041.html
この公園の完成を報じる新聞記事です。
川越城 中ノ門堀跡公園が完工(2010年3月29日 読売新聞)
川越城の旧城内に唯一現存する堀で、県史跡に指定されている「中ノ門堀跡」(川越市郭町)の史跡公園化整備工事が完了し=写真=、28日、地元住民や市、市議会関係者が参加して完工式が行われた。4月1日から一般に無料開放する。
同堀跡は、江戸時代初期に始まった城の大規模改修工事の際に造られた堀の一部とみられ、長さ約46メートル、幅約20メートル、深さ約5メートル。
明治時代以降、城の多くの建物や施設が取り壊されたり、埋め立てられたりしたが、同堀跡は民有地の中に残されていたため、史跡公園として保存しようと市が2008年に取得、09年10月から整備していた。
史跡公園の入り口には、歴史的景観を考慮して2本の柱に横木を通した高さ3・1メートル、幅3・7メートルの「冠木(かぶき)門」を設置。門を入った所に休憩スペースを設け、ベンチに座ったまま堀跡を見学できるようにした。
堀の内側には、景観上の配慮と土崩れ防止のために芝などを植栽。堀の東側上部には高さ約2メートル、長さ約40メートルの白壁風の土壁を巡らせ、敵襲に備えて鉄砲を構える穴「鉄砲狭間(ざま)」も設けた。
市文化財保護課は「蔵造りの町並みと川越城本丸御殿を結ぶ中間にあり、川越観光の拠点となることを期待している」と話している。開園時間は午前9時~午後5時。年末年始は閉鎖。
出典http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saitama/news/20100329-OYT8T00026.htm
城内の「中ノ門」近くにあった空堀が民家の中に残っていたようです。それを「用地取得を含む総工費約1億8000万円」で公園にしたといいます。
ぼくは先日、佐倉城内のすばらしい空堀を見てきたばかりです。
佐倉城・馬出し空堀http://www.tateyama-town.com/photo/pic/0017498/
せっかく作った関係者には申し訳ないけれど、どうしても比較してしまいます。あまりにも「ちんけ」です。
川越散歩の途中に一休みするポケット公園としてはいいかもしれませんが、ぼくなどはどうして川越城はこんな無様な姿になってしまったのかと考えてしまいます。
「明治時代以降、城の多くの建物や施設が取り壊されたり、埋め立てられたりした」のはどこの城跡も同じです。しかし、川越城址のように「本丸御殿」の隣まで民家が侵入し、空堀跡まで市街化している城跡がどこにあるのでしょうか?
どうしてこんなことになったのかを知りたいのですが今のところ解りません。維新の時、幕府側についた大名の城跡が徹底的に壊されたと聞いたことがありますが、会津若松城址は健在です。人々が知恵を絞って保存に尽力したからでしょう。
川越の場合は藩庁や武士に債権を持つ町人が我先にと接収したのでしょうか?
川越は関東有数の城下町だったわけですが肝腎の城跡が蚕食されたため今や城下町の風情はありません。
市当局が何とかしようとして本丸御殿を改修したり、堀跡を公園にしたりしている努力は解ります。しかし、もう少し、大きな事を考えるべきです。
少なくとも本丸御殿の周辺一帯を公園にすることです。川越高校を郊外に移転させることから始めるべきです。川越女子高と統合して移転させれば市街地が面目を一新するかもしれません。
年間、六百万の観光客に恵まれる川越は今時珍しく幸運な町です。末永く人々の心を潤す町でありたいものです。そのために少しは大きな都市計画を立てて市民の協力を求めるべきです。
川越高校は最近立派な校舎を建てたようです。市長や知事は何を考えているのかと思います。
参考・川越城http://www.geocities.jp/shanehashi/Travel/Japan/Oshiromeguri/KawagoeJyo.html
川越城中ノ門堀跡公園がオープンしたと聞いたので自転車で探索に行ってみました。前日に城周りを歩いたときに探したのですが見あたらなかったのです。
意外なところにありました。市役所からほど近い道路脇です。
中ノ門堀跡公園 http://kuwabara03.blogspot.com/2010/03/201041.html
この公園の完成を報じる新聞記事です。
川越城 中ノ門堀跡公園が完工(2010年3月29日 読売新聞)
川越城の旧城内に唯一現存する堀で、県史跡に指定されている「中ノ門堀跡」(川越市郭町)の史跡公園化整備工事が完了し=写真=、28日、地元住民や市、市議会関係者が参加して完工式が行われた。4月1日から一般に無料開放する。
同堀跡は、江戸時代初期に始まった城の大規模改修工事の際に造られた堀の一部とみられ、長さ約46メートル、幅約20メートル、深さ約5メートル。
明治時代以降、城の多くの建物や施設が取り壊されたり、埋め立てられたりしたが、同堀跡は民有地の中に残されていたため、史跡公園として保存しようと市が2008年に取得、09年10月から整備していた。
史跡公園の入り口には、歴史的景観を考慮して2本の柱に横木を通した高さ3・1メートル、幅3・7メートルの「冠木(かぶき)門」を設置。門を入った所に休憩スペースを設け、ベンチに座ったまま堀跡を見学できるようにした。
堀の内側には、景観上の配慮と土崩れ防止のために芝などを植栽。堀の東側上部には高さ約2メートル、長さ約40メートルの白壁風の土壁を巡らせ、敵襲に備えて鉄砲を構える穴「鉄砲狭間(ざま)」も設けた。
市文化財保護課は「蔵造りの町並みと川越城本丸御殿を結ぶ中間にあり、川越観光の拠点となることを期待している」と話している。開園時間は午前9時~午後5時。年末年始は閉鎖。
出典http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saitama/news/20100329-OYT8T00026.htm
城内の「中ノ門」近くにあった空堀が民家の中に残っていたようです。それを「用地取得を含む総工費約1億8000万円」で公園にしたといいます。
ぼくは先日、佐倉城内のすばらしい空堀を見てきたばかりです。
佐倉城・馬出し空堀http://www.tateyama-town.com/photo/pic/0017498/
せっかく作った関係者には申し訳ないけれど、どうしても比較してしまいます。あまりにも「ちんけ」です。
川越散歩の途中に一休みするポケット公園としてはいいかもしれませんが、ぼくなどはどうして川越城はこんな無様な姿になってしまったのかと考えてしまいます。
「明治時代以降、城の多くの建物や施設が取り壊されたり、埋め立てられたりした」のはどこの城跡も同じです。しかし、川越城址のように「本丸御殿」の隣まで民家が侵入し、空堀跡まで市街化している城跡がどこにあるのでしょうか?
どうしてこんなことになったのかを知りたいのですが今のところ解りません。維新の時、幕府側についた大名の城跡が徹底的に壊されたと聞いたことがありますが、会津若松城址は健在です。人々が知恵を絞って保存に尽力したからでしょう。
川越の場合は藩庁や武士に債権を持つ町人が我先にと接収したのでしょうか?
川越は関東有数の城下町だったわけですが肝腎の城跡が蚕食されたため今や城下町の風情はありません。
市当局が何とかしようとして本丸御殿を改修したり、堀跡を公園にしたりしている努力は解ります。しかし、もう少し、大きな事を考えるべきです。
少なくとも本丸御殿の周辺一帯を公園にすることです。川越高校を郊外に移転させることから始めるべきです。川越女子高と統合して移転させれば市街地が面目を一新するかもしれません。
年間、六百万の観光客に恵まれる川越は今時珍しく幸運な町です。末永く人々の心を潤す町でありたいものです。そのために少しは大きな都市計画を立てて市民の協力を求めるべきです。
川越高校は最近立派な校舎を建てたようです。市長や知事は何を考えているのかと思います。
参考・川越城http://www.geocities.jp/shanehashi/Travel/Japan/Oshiromeguri/KawagoeJyo.html