川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

佃島

2010-04-09 21:02:57 | 友人たち
 4月8日(木)晴れ

 癌研の定期検査に行く途中、有楽町線の電車の中で月島で下りて佃島を散歩することにしました。もしかしたらKくんに会えるかな、と思いついたのです。

 駅近くのベンチに座って電話してみると何とKくんのお宅は目の前のビルですぐに出てきてくれました。

 Kくんは大学の後輩ですが歳は一つしか違いません。67,8になるのですから「さん」がいいのかもしれませんが50年近く「くん」と呼ばせてもらってきました。

 僕が自治会の委員長をやった時、一年生だった彼らが活動の主力でした。都立学校の教員になったのでその後も出会うことはありましたが何かを一緒にやったり、格別に親しく付き合ってきたわけではありません。

 それでもこの数十年間、変わることなく大切に思ってきた友人です。有力な党派の勢力争いが続く組合の役員選挙にいわば「市民派」として立候補し、見事当選したこともあります。

 定年後、「君が代」の強制に抗議して嘱託を解雇され、裁判闘争を継続中です。

  参考・川越だより・「君が代」の強制と裁判」
http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/1c211a976ee886b2a0c06fdca1dd7c8e

 午後からは裁判にかかわる用事があるというのに飛び入りの珍客を連れて「ふるさと・佃島」を案内してくれました。

 佃島http://hix05.com/picture/tukisima/tuki05.html

 Kくんが生まれ育った家は江戸時代からの正真正銘の佃島にありました。今は埋め立てや大きな橋がかかって「島」の実感がありません。しかし、説明を受けるとその一角は明らかに「島」で、納得です。
 
 敗戦後、幼い「漁師」として遊んだり、家計を助けたりしたKくんの姿が見えるようです。ここは「佃煮」が名産です。あれこれの魚採りに精を出したのでしょう。

 中学を出ると渡し船で日本橋の証券会社に通い、夜は紅葉川高校(定時制)に学んだといいます。強権にひるまず、誠実で一途な人柄はこのような生活の中で培われたのです。

 今は風光明媚な都心の一等地です。石川島播磨重工の跡地に巨大なマンション群が林立し、地域も学校もかわりました。

 始業式直後の?子どもたちが公園でクラス写真を撮っています。いかにも億ションに住む高学歴の親の子どもらしい雰囲気です。

 高校生の時から社会主義者だったKくんならずともこの「ふるさと」の変貌は激しすぎて、受け入れがたいのではないかと思いました。

 お母さんと一緒に住んでいたというマンションで昼近くまで過ごしました。僕とは違った人生が宿っています。

 今度はゆっくり時間をとって交流したいものです。高価な佃煮を買って持たせてくれました。

  川越だより・「副作用」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/f4ce04f8698cf9856a031acb0c5029c1?st=0

 ぼくの学生運動(7)生徒会活動?http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/0372ea78e707208e80d862d7304768d0