川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

小沢一郎さんを勝たせたい。

2010-09-08 16:18:33 | 政治・社会
 昨日夕方、川越駅前で小沢一郎さんを支持する田中真紀子さんの街頭演説があったので聞きに行ってきました。

 地元選出の小宮山泰子議員のHPで知って出かけたのですが街中のどこにもポスターも看板も見あたらないので駅西口に着くまで本当にあるのかと疑ったくらいです。小宮山さんの関係者を入れても聴衆は100人ぐらいかな?

 定刻に車で現れた田中さんは15分?ほどの短い演説をして次の会場に向いました。ちょっと物足りない感じです。

 夜のニュースによれば昼間に宇都宮で田中、小沢コンビの演説会があったそうです。スケジュールに追われて紋切り型になったのかな。

 ひとつだけ印象に残った話。

 「小沢さんが沖縄問題について具体策をのべないのは、今語るとアメリカ筋につぶされるからだ。」

 僕は民主党員でもサポーターでもないがこの数年国政選挙では民主党を支持してきました。明治以来の官僚政治(霞ヶ関の官僚による政治支配)にとどめを刺し、「日本を洗濯する」との主張に共鳴し、「政権交代」に期待してきたからです。

 今回の代表選挙では小沢さんを支持します。その理由。

 ①僕は小沢さんの世界観や戦略をよく知っているわけではないが、霞ヶ関がこの人を恐れ、嫌っていることは尋常ではない。
 検察庁はこの人が政権交代で首相になろうというときに証拠もなく罪人に仕立てようとした。御用マスコミが提灯持ちをして「小沢=悪人」説を吹聴して首相の座に着くことを阻止した。これは霞ヶ関が政治を牛耳っている何よりの証拠だ。

 ②民主党がやらなければならないことは霞ヶ関支配の解体だ。検察のやりたい放題にとどめを刺すことはその第一歩ではないか。鳩山政権は何もしなかったが、菅政権はひどい。

 霞ヶ関と御用マスコミの作り出した政治的えん罪を利用して自分の政権を維持しようとしてきた。今回の選挙でそれは露骨になった。

 ③菅政権はもはや霞ヶ関と御用マスコミに取り込まれた。「日本の洗濯」など出来るはずがない。
 政権交代の功労者を自分の地位を守るために平気で罪人にまで貶めることが出来るような人を僕は人としても最低だと思う。

 ④四面楚歌に見える中で小沢さんは最後の勝負に出た。その決断は誰にでも出来るというものではないだろう。演説を聴いている限り、久々に政治家の風格を感じる。

 小沢一郎を勝たせることが霞ヶ関と御用マスコミへの最初の大きな一撃になる。民主主義と人権を一歩でも確かなものにするために僕は小沢一郎さんの当選を願う。


 ○関連「川越だより」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/45818ab3ae984d8cc6478bfdf6ef834e 


NHK「戦争証言アーカイブス」

2010-09-07 14:06:29 | 政治・社会
 昨夜、友人からNHK「戦争証言アーカイブス」の存在を教えてもらいました。覗いてみると「15年戦争」期の310人もの方々の貴重な証言が収録されています。来年までに1000人の証言を集めたサイトにするそうです。

 これはまことに貴重な仕事です。折に触れてここに収録された一人一人の証言に耳を傾けていきたいと思います。僕は「お気に入り」に登録しました。

 皆さんもちょっと覗いて見てくださいね。「証言」のほかに「番組」や「ニュース映画」「録音資料」などもあり、あの戦争を総合的系統的に学ぶ資料の宝庫といえます。

  ○NHK「戦争証言アーカイブス」http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/about/


 中国残留邦人に関わる証言については次のサイトがあります。

 ○「二つに国の狭間で」http://www.sien-center.or.jp/kiki/


 戦争によらないで国際紛争を解決するという私たちの願いを実現するのは途方もなく難しいことです。
 過去の体験から学ぶことは誰にでも出来る大切な第一歩です。憎しみのためでも、報復のためでもなく、平和のうちにともに生きていくために学び続けたいものです。

かかしまつり

2010-09-06 16:49:03 | 川越・近郊
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 昨日、今日と日盛りに田園地帯を回って川越公園の遊歩道を歩いてきました。

 山田地区では「かかしまつり」が行われています。見はるかす黄金の穂並み。その一角に沢山の作品が展示されています。

 ○かかしまつりhttp://ton-q.at.webry.info/201009/article_3.html

 このあたりは地下水が豊富でこの日照ですから今年も豊作なのでしょう。

 夕べは妻が中学のクラス会(千代田区立錬成中学)で留守だったので、散歩の帰りに「安楽亭」で焼き肉を食べました。店を出たのは6時半過ぎですが田んぼの中の道はもう真っ暗でいささかとまどいました。

 猛暑は続きますが季節は進行しているようです。今年の川越祭りは10月16・17日です。

 ○http://glorysot.blog20.fc2.com/blog-entry-322.html

天上の散歩道

2010-09-05 15:40:31 | 出会いの旅
 暑い日が続きます。我が家の部屋の中の気温が36度、夜も30度を超えたままです。

 幸いにも暑い方が体調がよいので昨日は日中に川越公園を歩いた後、狭山の智光山公園までサイクリングをしてきました。夕方、カツヨシさんが立ち寄ってくれたので久しぶりにビールで乾杯。

 今回の「避暑」旅行ではあちこちで贅沢な散歩を楽しみました。参考になるかもしれないので紹介することにします。

 ①白馬五竜の「アルプス平自然遊歩道」と高山植物園(8月30日)

 テレキャビンとリフトを乗り継いで下りたところから「地蔵の頭」(1676m)周辺を歩きます。五竜岳を間近に見る30分程度の散歩です。帰りはリフトに乗らないで高山植物を観賞しながら下りてきました。二回目ですが片肺になっても苦労はありません。

  ○http://www.hakubaescal.com/green/alps/index.html

 ②八方尾根自然研究路(8月31日)

 こちらも2度目です。リフトを3回乗り継いだ後、八方池(2060m)まで1時間半くらいかけて登ります。こちらは僕にとっては「登山」です。あちこちからやってきた人々と出会います。高齢者がけっこう多く、励まされます。
 ハナアブが僕の腕にとまって離れません。塩をなめ続けているのです。「やれ打つな ハエが手をする 足をする」を思い出しました。

 ○http://www.hakuba-happo.or.jp/sightseeing/nature-study-trail.htm

 ③大出公園遊歩道(9月1日)

白馬駅の東側の姫川沿いに1時間ほどの遊歩道があるというので行ってみました。急な斜面になっている杉の林の中を登り下りする道で予想とは大いに違っていました。クマよけに拍子木を打ちながら進むようになっています。

 帰りに売店があったので寄ってみると高知の土佐山田から来られたという姉さんに会いました。計理士をされており僕の故郷の町の船主なども世話になったようです。近所の釣井司郎さん(故人)とは市商の同級生だったといいます。

 言葉のトーンから妻が土佐人だと気づいて教えてくれたのですが何とも世界は狭いものです。

  ○http://www.geocities.jp/caminito_hakuba/

 ④八島湿原(9月2日)

 浅間温泉からの帰路はアザレアライン・ヴィーナスライン・蓼科スカイラインと快適この上ない天上の道をたどって佐久に下りました。

 途中の八島湿原をゆっくり回ってみました。何度も来たところですが一回りするのは初めてです。妻が花の名前を次々に教えてくれますが何年経っても覚えられるのはほんのわずかです。その一つがマツムシソウ。

 http://www.google.co.jp/imglanding?q=%E3%83%9E%E3%83%84%E3%83%A0%E3%82%B7%E3%82%BD%E3%82%A6&imgurl=http://hida-itp-ac.up.seesaa.net/image/IMG_4681_2.jpg&imgrefurl=http://hida-itp-ac.seesaa.net/article/104766497.html&usg=__jMoJNZGWuavzOrQZC2-1Qn8K03Q=&h=1707&w=1280&sz=99&hl=ja&zoom=1&tbnid=uVdtn40pKM9wLM:&tbnh=150&tbnw=112&prev=/images%3Fq%3D%25E3%2583%259E%25E3%2583%2584%25E3%2583%25A0%25E3%2582%25B7%25E3%2582%25BD%25E3%2582%25A6%26um%3D1%26hl%3Dja%26sa%3DX%26rlz%3D1T4TSJB_jaJP347JP347%26tbs%3Disch:1&um=1&itbs=1&um=1&sa=X&rlz=1T4TSJB_jaJP347JP347&tbs=isch:1&start=0#tbnid=uVdtn40pKM9wLM&start=2


 ○http://www7.ocn.ne.jp/~hutte-k/contents17.html

金日成に贈られた朝鮮大学生200人の運命 元副学長の告白

2010-09-04 10:01:23 | 韓国・北朝鮮
 先に僕は 「運命を狂わせられた人は限りなく居ますが、中でも金日成の還暦に際し『生ソンムル(生の贈りもの)』として『献上』された200人の朝鮮大学校生のことはもっと知られるべきです。」と書き、この事件に深く関わった朝鮮大学校元副学長が罪の告白をしたNHKの番組を紹介した。

 その番組を克明に書き起こしたブログに出会うことが出来たのでその地道な作業に感謝しつつ勝手ながら該当部分を紹介することにする。優れた番組なので読者が全体を読まれることを希望する。

 この番組では金日成の還暦祝いに差し出されたのは「在日の若者や学生およそ260人」とされている。このころ『赤旗』のピョンヤン特派員だった萩原遼さんは日本から来たコリアンのオートバイ部隊(数十人?)を偶然目撃したという。朝鮮大学生200人のほかに60人程度の青年がさらに加えられていたのかもしれない。

 


  NHKスペシャル『北朝鮮帰国船
    ~知られざる半世紀の記録~』(07年10月8日)




【ナレーター】
 
(略)


 日本で帰国運動の中心となったのは朝鮮総連、在日本朝鮮人総連合会です。北朝鮮を地上の楽園と呼び祖国の発展を伝えました。帰国者を送り出した人の多くは堅く口を閉ざしていますが、今回、自らの体験を語る決断をした人がいます。パク・ヨンゴンさん、79歳。東京にある朝鮮大学の副学長を20年以上に渡って務めた朝鮮総連の元幹部です。パクさんは北朝鮮の国家理念・チュチェ思想を日本で広めるのに大きな役割を果たしました。金日成(キム・イルソン)とも数多く面会できる立場にいました。

 帰国事業が始まった翌年から朝鮮大学で教鞭をとったパクさん。北朝鮮から送られてくる資料を信じ祖国の発展を評価する論文をいくつも書きました。


「人類に変革をもたらし前進する祖国にチョンリマ(千里馬)が駆け抜ける」(映像 映画「チョンリマ(千里馬)」

*チョンリマ(千里馬)―社会主義朝鮮の記録― 1964年度作品
http://aoinomama13.seesaa.net/article/34007322.html

 当時、北朝鮮は工業生産の増大を計るチョンリマ(千里馬)運動を推進。「5ヵ年計画の目標を2年半で達成した」と発表しました。パクさんは1960年の論文で次のように記しています。


「朝鮮の勤労大衆は比類のない想像力を発揮し大成果を収めた。国民経済のすべての分野において決定的に勝利した。」

【元朝鮮大学副学長 パク・ヨンゴンさん】
 「ああ、これだけ見事に発展しているんだと。それに対する誇りすら持ちましたし、やはり我が民族はこれだけやれる能力と素質を持っているんだという誇りも感じていたんです。この社会主義の中でも最も模範的な社会主義として形成されていると。こう信じた。信じて疑わなかったんです。」

【ナレーター】
 パクさんたちが信じ続けた社会主義の発展。帰国を希望する人の数は減っていきましたが、それでも途絶えることはありませんでした。1972年、パクさんは教え子を自ら説得し北朝鮮に送り出しました。この年は金日成誕生60周年の年。在日の若者や学生およそ260人が金日成にお祝いの手紙を手渡すため帰国し、そのまま北朝鮮に残りました。この時、パクさんは幹部から指示され学生たちが北朝鮮に行くよう一人一人説得して回りました。

【元朝鮮大学副学長 パク・ヨンゴンさん】
 「『社会主義建設の先頭に立って君たちが自分たちの才能を十二分に発揮すればこれは君たち自身にとっても良いことであり、また朝鮮の建設にも役立つ』と。私はそれは本気でその通りだと思ってそういう説得をしました。」

【ナレーター】
 教え子を送り出した2年後、パクさんの北朝鮮への訪問が初めて実現。教員訪問団の一員として求められたのです。発展した祖国を見ることができる。しかしパクさんは初めて見る祖国の現状に衝撃を受けました。土を耕すやせ細った牛。電気も水道も行き渡っていない農村。理想とかけ離れた現実を目の当たりにしたのです。

【元朝鮮大学副学長 パク・ヨンゴンさん】
 「自分が日本で書いたあの論文と自分の頭の中で描いたあの社会主義、これがほとんどなかったということ。言うなれば自分があれほど模範的な社会主義建設を想像したものとは遠く及ばない現実が目の当たりにあったので、大きな大きなそれこそ衝撃と落胆と言い知れぬ悲哀、こういう様々な心情に陥ったわけであります。」

【ナレーター】
 パクさんにはさらに衝撃を受ける出来事がありました。金日成に絶対的な忠誠を誓うよう求めた10大原則を現地で告げられたのです。党の指導員から無条件に従うよう求められました。「指導者を神格化した」と言われる原則は社会主義を信じるパクさんにとって受け入れ難いものでした。


「党の唯一思想体系確立の十大原則」の骨子

 金正日は、1974年2月に開催された中央委員会第5期第8次全員会議で後継者として正式に決定されるとともに、政治局委員に任命された。金正日は2月19日の演説で、「全社会の金日成主義化」を党の戦略目標として提起した。また、4月14日には「全党と全社会に唯一思想体系をよりしっかりと立てよう」と題する演説を行い、「党の唯一思想体系確立の十大原則」を提起した。

 偉大な首領金日成同志の革命思想によって全社会を一色化するため身を捧げて闘争しなければならない。

1、偉大な首領金日成同志を忠誠で高く仰ぎ奉じなければならない。
2、偉大な首領金日成同志の権威を絶対化しなければならない。
3、偉大な首領金日成同志の革命思想を信念として、首領さまの教示を信条化しなければならない。
4、偉大な首領金日成同志の教示執行において無条件性の原則を徹底して守らなければならない。
5、偉大な首領金日成同志を中心とする全党の思想意思的統一と革命的団結を強化しなければならない。
6、偉大な首領金日成同志に従い学ぶ共産主義的気風と革命的事業方法、人民的事業作風を所有しなければならない。
7、偉大な首領金日成同志が抱かせてくださった政治的生命を大切に守り、首領さまの大きな政治的信任と配慮に高い政治的自覚と技術により忠誠で報答しなければならない。
8、偉大な首領金日成同志の唯一的領導の下に全党、全国、全軍が一体となって動く強い組織規律を立てなければならない。
9、偉大な首領金日成同志が開拓された革命偉業を代を継いで最後まで継承し完成させていかなければならない。

『資料 北朝鮮研究 Ⅰ政治・思想』慶應義塾大学出版会

【ナレーター】
 祖国の発展を担う人材として送り出した教え子たちはどうなっているのか?パクさんは北朝鮮で彼らと再会し言葉を失いました。教え子たちはパクさんが思い描いたような生活を送ることは許されていなかったからです。

【元朝鮮大学副学長 パク・ヨンゴンさん】
 「彼らの置かれている現状をかなりたくさん見ました。彼らは自分たちの希望通りの大学にも行けなかったし、仮に大学を卒業しても自分たちの希望する職場にも就けなかった。そういう状況に置かれていました。帰国した学生に対して本当にこれは消すことのできない罪を犯したなと、そういう思いで・・、悩み続けました・・。」

【ナレーター】
 心に描いた理想とはかけ離れた帰国者の現実。日本に戻ったパクさんは誰とも話をすることができませんでした。

(中略)

 【ナレーター】
 軍がすべてに優先する国・北朝鮮。その軍事技術に日本からの物資が使われたと見られています。9万3千人余りの人々が北朝鮮へと渡った帰国事業は1984年に終了しました。祖国訪問の船には万景峰号(マンビョンボン号)が就航し、去年活動を停止するまで運行を続けました。

 祖国の現状を目の当たりにし悩み続けたパク・ヨンゴンさん。北朝鮮の幹部から国家理念のチュチェ思想を研究するよう命じられ指示に従いました。やがて80年代に入って体制に対する疑問を抑えられなくなったパクさんをなだめたのは、チュチェ思想の権威ファン・ジャンヨプ氏(朝鮮労働党元書記)でした。後に亡命したファン氏も当時から体制に疑問を抱いていました。ある時、平壌で二人は盗聴を恐れ歩きながら話をしました。パクさんは問いました。「矛盾を感じるなら何故戦わないのですか?」ファン氏は次のように諭したと言います。

【元朝鮮大学副学長 パク・ヨンゴンさん】
 「『我々は犬死になる。犬死したってどうしようもないじゃないか。それから家族・親類に及ぶ弾圧はこれは悲惨なものだ』と。『だから今の体制に矛盾を感じながらもどう自分たちの研究をこの真理を追究していくか、これを模索しやっているんだ』と。『だから先生もそのことを念頭において、万歳を唱えなきゃならない時は万歳を唱え拍手をしなきゃならない時は拍手をし・・』・・。」

【ナレーター】
 パクさんは体制に対する疑問を隠しながら時にはそれを賛美し30年近くチュチェ思想の研究を続けました。しかし3年前、自らの思いを率直に記した手記を執筆(「人間中心の人生観」)、自分の行いを「恥じるばかりである」と記しました。パクさんは朝鮮総連の役職から離れました。

【元朝鮮大学副学長 パク・ヨンゴンさん】
 「ただ誤った体制であるということが明らかになった時点でも・・、必ずしも私は勇敢に立ち上がることができませんでした。だけども最後の人生を送るには反省と同時につまり正しく自分の一生をまとめたい、こう思っています・・。」

 出典○'07 10/8 NHKスペシャル “北朝鮮帰国船”~知られざる半世紀の記録~ http://aoinomama1313.seesaa.net/article/135936416.html

 <補足>パク元副学長

 この時期の朝鮮大学校OBたちのHPを見るとこんなやりとりが記録されている。


 07.10.10-静岡の○東○が電話で、「NHK見たか?」、「中央何とか見たか?」。ああいう形で、パク・ヨンゴン先生であれ、パク・ピョンヒョン先生であれ、話題になってほしくない。

 ○出典http://www4.ocn.ne.jp/~uil/14ki-in.htm

 副学長の悲痛な罪の告白も犠牲になった人々の同級生のこころにはひびかないのだろうか?

 パク・ヨンゴン元副学長が朝鮮総連に軟禁されているという話を聞いたことがある。そんなことが許されてはならない。NHKはその後のパクさんを取材してより丁寧に事実に迫って欲しい。

 

時夫くん

2010-09-03 20:26:18 | 友人たち
 信州(安曇野・大町・白馬)への4泊5日の「避暑」から昨夕帰ってきました。留守中も多くの方が「川越だより」を覗いてくださってありがとうございます。

 この「避暑」で心が温まったせいか、僕はすこぶる元気です。まだまだ続く炎暑をこの勢いで乗り切っていきたいものです。

 29日、下仁田から国道254の快適なドライブで昼前には安曇野に着きました。時夫くんにはジャスコで落ち合った後、自宅を訪ねてお連れ合い共々交流の時を過ごしました。

 その後は安曇野のあちこちを案内してもらい、最後にお連れ合いの実家近くの長峰山から安曇野を俯瞰しました。

 この間5時間あまり、僕は言いしれぬ喜びの中にいました。

 僕が時夫くんたちをHR担任したのは1975年のことです。池商(池袋商業高校)に入学したばかりの彼らはまだ15歳で少年の幼さをどこかに残していました。

 様々な事情から翌年は組合(日教組系列の都高教組池商分会)の仕事を担当することになり、担任は一年限りでした。そのため、時夫くんの印象も一年生の時のママです。

 ジャスコの駐車場で会ったのは34年ぶりということになり、彼ももう50を過ぎているはずなのですが、向学心に燃えている青年に会っているような印象を受けました。「これがあの時夫か」とびっくりしたといってもいいでしょう。

 家族と人を大切にしながら日々学びの心を忘れず、一生懸命に生きている人の姿がそこにあったのです。「本当にいい男になったなあ」。

 語らいの時間が足りなかったのか、もっと話しておきたいことがありそうだったので私たちは旅の最後の宿を浅間温泉に取り、仕事を終えて訪ねてくれた時夫くんと再び交流の時を持つことができました(9月1日)。


 覚え書き①

 僕は当時、一人もやめさせないぞと張り切って生徒理解に努めていたが、本当のところは何も解っていなかったなあ。

 早くに父と別れて貧困のただ中で育った。おばあちゃんはよくスイトンを食べさせてくれたという。具は何も入っていないただの醤油汁のスイトン。僕の世代ならまだしも、高度成長期の東京にもそのような生活があったのか。

 くず鉄商をしている近所の朝鮮人の友達の家でごはんを食べさせてもらうこともあった。家族で食卓を囲む団らんはなかった。父も母もいない。「家族」への渇き。同じような境遇のこどもたちがたむろする。僕には想像がつかない少年時代。


 覚え書き②

「<池商1~7>はこれが高校生活というものか、と感激した。みんなの仲がよく楽しかった。」

 そのぶん、2年生以後は苦労の連続。時夫くんを「学校のダニ、ゴキブリ」などといってはばからない教員や校長がいたという。

 「上から目線でしか生徒を見られない教員の中には平気で女子生徒にも暴力をふるう者までいた。」

 (この時期は非常勤講師組合の待遇改善闘争を巡って分会が分裂し、組合が少数派になった直後で、多数派となった人たちが学校を思うままにしようとしていたがここまでとは思わなかった。)

 今、人の親になり、人に物事を教える仕事に就いてから教育のあり方を自分のこととして考える毎日だという。
 僕は全員に「5」をつけるなど格別に変わった教員だったかもしれないが、その生き方が教育のあり方を考えるヒントのひとつにでもなっているとしたらうれしい。


 覚え書き③

 時夫くんはお連れ合いのことを心から尊敬している。

 信州に来て貧しさの中でも働いて大学に通った彼女を知って「自分はなにをしてきたか」と馬鹿さ加減に気づいたという。そこから人生の再出発が始まったのだろう。

 話をしていると学びの広さと深さが感じられる。根底に人に対する優しさが宿っている。

 お連れ合いのお父さん、お母さんが家族の一員として迎えてくれた。どんなにかうれしかっただろう。

 義父の最後を看取り、昔ながらのやり方で葬った。それが彼にとっては義父からの何よりの贈り物だった。「父」のぬくもり、家族の絆を実感することが出来たのだ。

 こんな親子のつきあいがどこにでもあるわけではない。ぼくも聞いていてうらやましいやら恥ずかしいやら。

 お連れ合いとその家族に出会って渇きをいやし、再出発へのエネルギーを蓄えたのだろう。今彼が若々しく魅力的なのはそのような出会いに感謝し、みんなの目に見守られながら精一杯生きているからだろう。

 覚え書き④

 未熟な教員だったのに僕は本当に幸せ者だ。30余年ののちに15の少年の生活と心の内をいくらかでも知ることが出来た。この人がもっとも苦しんでいたときに力になることは出来なかったが、今こうして再会することは出来た。これから折に触れて交流する友達になれるかもしれない。それを本当にうれしいと思う。