1993年にアメリカ人弁護士の
本物のスクリムショウが彫られ
西部開拓時代の町の酒場では、
本物のドク・ホリデーの実銃。
これは私のレプリカガンのパー
これなどは、開拓時代ど真ん中
だが、これは駄目。両刃だから。
これもアウトだ。所有そのもの
紐はビヨーンと伸びる何とか
ブレードの肉厚4ミリで、意外
私はカンザスタイプのシース
洗練されたブレードシルエット
映画『西部開拓史』(1962)
発砲。
倒れたのは左のほうの一番手前
本物の牛さんたちは銃声に驚い
映画『西部開拓史』(1962)
これだよ、これ。
これこれ。
全編164分の長編大作。
見応えがある。
西部開拓時代を時代を追って
描いたアメリカ映画だ。
冒頭の作品開始から延々と8分
程は「序章」のテーマ音楽が
流れる。長い(笑)。
オーケストラによる演奏だが、
曲は後年の映画『ワイルド・ギ
ース』(1978英)の落下傘降下
のシーンの音楽に曲調が似て
いる。
というか、後発の「ワイルド・
ギース」の曲が似ているのだが。
北米大陸に白人たちが訪れた頃、
原住民である黄色人種のインディ
アンと白人は友好的な関係にあっ
た。
それが、侵略して土地を分捕る
歴史を重ねる事により、原住民
たちへの暴虐が行なわれるよう
になった。
南米はスペインやポルトガルが
侵略し、北米はイギリスやフラ
ンス等の国々が侵略を行なった。
南米は言葉も奪い、全域スペイ
ン語かポルトガル語になった。
北米はイギリスが主体であった
ので英語が言語となった。
スペインやポルトガルはアジア
の日本への侵略も16世紀半ばに
企てたが、日本には武士がいた
ために西欧列強は侵略を諦めた。
当時の派遣団がスペイン国王に
親書報告を行ない、日本を武力
で攻めたらスペイン本国が滅び
る、としたためている。
それにより、南米北米のように
西欧は日本への武力侵略をやめ
てキリスト教導入による懐柔を
図る方針にシフトした。
実際、1543年に種子島にポル
トガルから鉄砲が伝来して以降、
短期間のうちに日本は世界で
最大数の銃器を保有する軍事国
と変身していた。全武士軍団が
最新式の火器で武装している。
そして、そのソルジャーたるや、
命を落とす事など何とも思わな
い骨の髄までの戦士たちが武士
という血脈的職業にあった。
火器使用以前には刀槍で鬼神の
ような戦場働きをする。
それが武士だった。
武士は殺戮者であり、日本列島
の実効統治者でもあった。
そして、鉄砲伝来以降は地球上
で最大の銃器保有国だ。
世界を侵略により支配した西欧
列強たちは日本には手を出せな
かった。
それは、日本には武士がいたか
ら。
これは歴史的事実としてあった。
アメリカ合衆国は、人類の一つ
の壮大な実験場としても存在す
る。
そこには光と闇がある。
俳優のチャールトン・ヘストン
は徹底的に人種差別に反対し、
黒人の公民権運動のデモにも
1960年代には参加していた。
しかし、彼は全米ライフル協会
の重鎮でもあった。
彼の行動は偽善ではなく、実に
「アメリカ合衆国的」であった
といえるだろう。
アメリカ合衆国には人類史上
ある種の希望があったが、いつ
からかそれが変質し、謀略によ
る世界支配を旨とする国家に
なってしまった。
本作は、そうしたThe U.Sの未開
地進出時代、西部開拓時代の歴
史の流れをアメリカ人の視点から
描いた映画作品だ。
長尺映画だが、一切飽きさせない。
冗長に過ぎるとしたら、オープ
ニングの音楽演奏(映像は「序曲」
のテロップのみ)のシーンのみだ。
作品としては、とてもよい映画。
ハリウッドスター大集合の豪華
な作品だ。
最初から家があった訳ではない。
最初から町があった訳でもない。
最初から道があったのでもない。
彼らアメリカ入植者たちは、こう
して川を移動して荒野を目指した。
移動途中も家なども無い。
このような生活をつづけながら、
西へ進んだのだ。
そして彼らは、このような町を
砂漠にさえも作って今に至る。
アメリカ人の力は、家族で力を
合わせて、どんな苦難があろう
とも、前に前にと進む力だと
人々に教えてくれている。
この光景は、彼ら自身が自分たち
で作った。日本の城の町のように
上から与えられたものではない。
アメリカ合衆国。他民族国家。
そこには差別も貧困も富もある。
だが、王はいない。
人民の人民による人民の為の
民の国なのだ。
一つの人類史における、壮大な
実験がこの国には存在している。
地球上にアメリカ合衆国が誕生
した事は、歴史的にとても大き
な意義がある。
テレビの日曜洋画劇場は毎週
楽しみに観ていた。
淀川長治さんの解説がユニーク
だった。さよなら連呼は有名だ
った。後年オフコースが曲にした
くらいで(違
1970年代初期時点でもう何年も
映画解説をなさっていた。
1960年代にはアニメ『怪物くん』
でも解説をしていた。
淀川先生は横浜のごくごく近所に
住んでいた。歩いてすぐのとこ。
見晴らしの良い丘の上の家だ。
戦中からお住まいだったようだ。
先生、いつもステテコ姿で玄関
脇を掃除したりしていた。
淀川長治さんが遺した名言がある。
「名作映画は、人類にとって最高
の総合芸術である」
淀川さんのエピソードにはこんな
ものもある。
「淀川が若かりし頃、ある所へ講演
に行った際、会場の出口で出待ちを
していたファン達と握手を交わした
後、車に乗ろうと歩いていたら列の
最後尾に居た一人の少年が「握手し
て下さい」と左手を差し出してきた。
西洋では、左手で握手を求めること
は決闘の申し込みを意味するとされ、
非常に失礼な行為とされているため、
腹を立てた淀川は「君、握手は右手
でするもんだよ。左手で握手を求め
ることほど失礼なことは無い!」と
言い放ち、少年と握手することなく
自動車に乗り込んだ。しかし、車を
発進させた直後、ルームミラーに
少年の寂しそうな表情と、右腕が
無い様子が目に入った途端、すぐ
に車を止めさせた。大慌てで車か
ら飛び降りて少年のもとに駆け寄っ
た淀川は、泣きながら自分の非礼を
詫び、驚いた少年もその場で泣きだ
した。少年は、不慮の事故で右手を
失ったことと、講演が聴けなかった
ので、せめて握手だけでもしたいと
思い、淀川と握手がしやすいよう、
列の最後尾にいたことを、淀川に
語った。淀川は次の講演会の予定を
キャンセルして、その少年と長い時
間語らいを続けた。この日、事情を
確かめようともせず、障害者少年を
罵倒してしまった自分の不甲斐なさ
を、淀川は晩年まで後悔し続けて
いたという」
(「映画少年・淀川長治」荒井魏 著)
着陸地変更は天候その他様々
な条件により致し方ないが、
これに当たると非常に困惑
する。
私も仕事で羽田から広島空港
への便が天候悪化により関西
空港に着陸した事があった。
最終便。全便がそうなった。
もうね、ホテルなどはどこも
満杯で取れないの。
天王寺まで出て、朝までやって
いる店でどうにか時間を潰した。
その日、鳥取に帰る同行者たち
も途中で飛行機が伊丹空港に
降りたそうで、大変だったと
後日語っていた。
似たような件で、台風の影響で
飛行機は飛ばないから本社会議
に新幹線の始発で早朝出たら、
大阪で新幹線が全線ストップ
した事があった。
重要な会議の初日は欠席だった。
かといって、地元現地での仕事
があったので、前日や前々日か
らの上京はできない。
交通の便は天候その他の影響で
遅延したり運行停止になるのは
やむを得ない。
数年前、モーターサイクルクラブ
の仲間内で結構な数が集まるツー
リングを企画した。
東京横浜の関東組は大阪まで弾丸
で走り、大阪から船便で九州別府
まで行くルートだった。往復船内
で2泊、九州には早朝上陸して夕方
の船便でまた大阪に戻る強行軍。
別府に各地から終結して阿蘇を目
指す。九州北部や鹿児島からは直
行だ。
皆で泊まる宿まで予約していた。
中国九州の西日本組はすべて陸路。
計画はかなり前から詳細に練って
いて、関東組は船便のチケットま
で購入していたが、突如太平洋上
を東に進んでいた台風が進路を変
えて大阪地方に上陸の兆しが出た。
結果は、関西東海地方に台風直撃。
全船欠航となった。
結局、西日本組も含めて計画を
中止した。西日本組は天候の影響
は無かったが、全体の全国企画
なので、一部の者たちが参加不能
の場合には全体行動としては中止
する判断を下した。一部だけ参加
というのは全国ミーティングに
ならないからだ。
10月なのに台風か~、みたいな
秋だった。
関東組(イースト)と西日本組
(ウエスト)の合同走行は楽しみ
にしていたが、残念な年だった。
お天気だけはいじれない。
人間の力では如何ともしがたい。
おてんと様が照らすも曇るも、
それは空次第。
なんでわしがそがぁに言われな
いけんのん?」
地域。理由は分からないが、
県別類別としてはそれが現実に
存在する。
一体どうなってるのか!と思う
けど、現実は現実としてある。
憲法を無視した条例があり
ます。
私の知り合いにもマツダの
下請け工場に勤める人がいま
すが、職場で足に障がいを持
つ障がい者の真似をして皆で
大爆笑だった、という事を私
に話したりしています。
「そういうのはよくないから
やめたほうがいいよ」と私が
言うと、「え?なんで?」と
返してくる。
これ、つい最近もあった事実で
す。
雨の三原城とJR三原駅。
ずっぽしと雨である。
海は全く見えない。
市街地西端にある広島県立大も