渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

国内入手可能 実銃コーチガン

2023年05月15日 | open



国内でも実銃コーチガンが
買える。


結構安い。
コーチガンどころか、シャープス
を410番にした銃も買える。



かなり安い(笑
下手したら玩具の長物銃のほう
が高いくらいだ。
古い散弾銃とかは仲間内売買だ
と5万程だ。
これはもう完全に実銃のほうが
オモチャのテッポより安いと来
てる(笑

しかし、実銃コーチガンなんて、
完全なるロマン銃だろうなぁ。
実際に狩猟とかに使えるのだ
ろうか。
でも、「眠り銃」は摘発指導
対象なので、年間規定弾数は
撃つのだろう。
実銃はかなり維持費がかかる。
知り合いによると、戦国期から
有名なある華族のお殿様は射撃
やり過ぎて破産したという。
えー?あの氏族が?という人。
通常でも金が相当かかる。
知り合いでも返納してやめた
人間が何人かいる。
実銃を持つと、ずーーーっと
撃ち続けないとならない。
経費たるや大変な模様。

戦後の日本は射撃というスポ
ーツは隆盛できないシステム
になっているので、なかなか
良い選手が出てこない。
だが、過去にはピストル競技
で五輪金メダルの選手も出た。
ピストルのみは自宅保管では
なく、自分の銃であっても警
察保管となる。
そして、門戸は狭く、警察官
や自衛官等しか選手は出てい
ない。

剣道で警察官がやたらと強い
のは、年柄年中稽古している
から。
稽古できる環境にあるから。
全日本などは、警官大会のよ
うなものになっている。
まあ、それは仕方ないかも。
白バイ隊員が二輪運転がとん
でもなく巧いのは、それは
乗るのが仕事だから。
職業は警察官だが、二輪に関
しては本職のプロという訳。
そら、下手なプロなんていや
しない。

10年程前から白バイ隊員も
けん銃を装備するようになっ
た。
それを道で初めて見た時には
かなり驚いた。
例外的に白バイは銃を持たな
かったのが戦後ずっと続いて
いたからだ。
だからこそ、『ワイルド7』が
特異な例として漫画にもなる
背景があった。
見ると、まだS&Wのアルミ
フレームは配備されていなく
て、ニューナンブの60式の
短銃身モデルが初期には配備
されていた。グリップはサム
レストのあるタイプ。
今は全員S&Wのライトウエ
イトのようだ。
モデルガンより軽い。
軽すぎて反動強くて中らない
んじゃない?というような銃。
白バイ隊員がけん銃装備とな
った頃、女性警察官も銃を持
つようになった。
そして、スカートを履かなく
なった。
婦警さん=スカートという
時代は終わった。

マックの時代

2023年05月15日 | open



今住んでいる狭い田舎町の直線
2キロ圏内の狭いエリアには、
マックが3軒ある。
かつて20年ちょい前はマック
どころか、コンビニさえ市内
に1軒も無かった町だ。
2キロ以内にマック3軒は、何
だか非常に妙なものを覚える。

最近ケンタッキーとスタバが
できた。
スタバはあすオープンだ。
ケンタは復活組。
ケンタ待望論はよく聞いたが、
スタバは「?」ぽい声が多い。
近所には最強コメダがある。
どうなるか。

市内のショッピングモールの
ど真ん中に喫茶店がある。
よく潰れる場所。
最初は回転寿司で、その後に
喫茶店になり閉店し、また喫
茶店になり、また喫茶店。
その物件での店はよく閉店する。
何かある。
単なる経営者の手腕だけでな
く。
立地が飲食店には合っていな
いのかも知れない。
向かいの焼肉屋やファミレス
はかなり繁盛しているからだ。

小さな町だが、飲食店の盛衰
が激しい。
というか、盛はほぼ無い町な
のだが。
この町では飲食店は流行らな
い。
市民の外食率が異様に低いか
らだ。
それなのに飲み屋はゴマンと
ある。
しかし、飲み屋も浮き沈みが
非常に多い。
そして、あまり安い店という
のは、なぜかこの町には少な
い。

小さな町なので、食料品等の
日用品の買い物は便利だ。
新刊書店は3軒しかない。
なぜかしら、個人経営の病院
はドワッとある。
市街地などは数軒に一軒が
病院、クリニックだ。
なぜそうで、どういう事なの
か全くもってよく分からない。

マッポの時代

2023年05月15日 | open


これはバランスを取るために
イン側の膝を開いているか
いないかの違いだけで、完全
にハングオンである。


最近ではマッポなどとは呼ばれ
なくなった。
私の少年時代にはそう呼んでい
た。
江戸弁だ。
明治新政府のポリがオイコラ
警官で偉そうなので、江戸っ子
たちは「薩摩っぽが」と揶揄し
た。
その名残りは戦後昭和まで続い
いた。
警察がオイコラをやめたのは、
平成に入って制服を一新して
からだが、基本的に組織体質
は何一つ変わっていない。
だが、警察官の表面上の人当
たりは見違える程に変化した。
かつては、車を停めた時も、
「おい、免許証。どこ行くん
だ?」だった。
今は「大変お急ぎのところ
おそれ入りますが免許証を
拝見できますか?」と言う。
雲泥の差だ。
だが、中身は変わってない。
あくまで、表面上の変化のみ
だ。
内実はマッポの時代はまだ
延々と続いている。



コルト・ドラグーン

2023年05月15日 | open




コルト・ドラグーン。
1848年米軍制式拳銃。
マルクスが『共産党宣言』を
書いた年(笑
とにかくでかい。重たい。
こんな銃は持ちたくない(苦笑
だが、兵役では選べない。

コルト各銃の比較。
(モデルガン。SAAのみグリップ
部が実銃より大きい)

大きすぎ。ウォーカーなどは
論外な程でかい。
そして、チェーンファイアの
連爆暴発が起きる宜しくない
銃だった。
ドラグーンは次世代への中継
ぎ的な工夫されたモデルだ。
ドラグーンの次に会心の決定
打が出る。

ドラグーン後のモデル。
M1851ネービー。.36口径。
実質的には.38口径に相当する。
歴史的名銃。かなりスリム。
爆発的にヒットした。
金属カート用に改造された
コンバージョンに至っては、
1890年代あたりまで使用され
た。ベースが非常に完成され
ている良い銃だ。ホームラン。



その後のモデル。
1872年発表のシングル・アク
ション。西部劇定番の銃であ
り、「西部を征服した銃」と
呼ばれている。
150年後の現在もリリースさ
れている。
M1873として1882年テストに
合格して米軍制式採用。
民間には1875年以降に発売さ
れ始めた。7.5インチ、5.5
インチ、4.75インチの銃身が
あり、口径も.22〜.45まで豊
富だった。
このSAAと1911はコルト社の
代表製品だ。



SAAはウィンチェスターM73
ライフルと共通弾を使えるモ
デルを.44-40フロンティア
シックスシューターと呼んだ。
これが.45よりも大人気となる。
.45は陸軍採用だったが、西部
開拓民たちにとっては、ライ
フルと共通弾薬というのはとて
も便利だった。
.45弾モデルはピースメーカー
と呼ばれたが、一般的にSAA
全般をそう呼ぶ事もある。

M1873SAAとM1848ドラグーン
の比較。重量も大きさもかなり
違う。SAAは軽くコンパクトだ。


コルト社は西部開拓時代に一度
倒産している。金属薬莢の権利
絡みだ。
今世紀に入って、別メーカーの
台頭により営業不振でまた倒産
した。
だが、今は資本のテコ入れによ
り持ち直している。
コルトとS&Wが消滅するという
事は、アメリカ合衆国が消滅す
るのに等しい。

神田祭り

2023年05月15日 | open


きのう、三大祭りの一つ神田
祭りが4年ぶりに開催された。
200以上の神輿が宮入りした。
盛り上がっていた。
いいね〜。


プラスチックモデルの発達

2023年05月15日 | open


金属モデルとプラスチックモデル
のSAA。所有しているピースメー
カーのごく一部だ。

世界初のモデルガンメーカーの
MGCが発売したコルト・シングル・
アクションは1960年代に大人気
だった。
その後、後発メーカーがモデル
ガンを多く出すが、MGCの製品
は作動性が比べ物にならない程
に良く、「撃つならMGC。鑑賞
するなら別メーカー」とまで云
われていた。

1971年10月に日本の歴史上重大
な銃刀法改訂が為された。
それは、玩具銃のハンドガンは
金属製は銃口を塞いで黄色もし
くは白く塗らなければならない、
とするものだった。おもちゃ狩
りが実行されたのだった。
長物に関しては黒色でもOK。
黙認として金属製ハンドガンは
金メッキのみは黄色に分類する
のでOKとされた。
ただし、シルバーメッキの金属
製は違法であるとされた。
実銃でニッケルメッキやクロー
ムメッキやステンレス銃がある
ので区別がつかないから、と
いうのが理由だそうだ。

1971年10月規制以降、モデル
ガンメーカーは製品を金メッ
キにしての発売に切り替えた。
ただ、当初は金粉のような
絵具を塗っただけみたいな
製品も多く出回った。洗えば
落ちて黒色ブルーイングが出
てくる。
アメ横のマルゴー製などは
それだった。
一方CMCや中田は綺麗な金
メッキ仕上げで製品化した。
MGCはどうかというと、一般
的な製品ラインは、まるで
ボルトとナットのメッキのよう
な粗末な金色処理をした製品を
発売した。
それとは別枠でMGCは金メッキ
シリーズを出した。
これは規制前にもクロームメッキ
モデルが上級高級機種として発売
されていたが、その金メッキバー
ジョンだった。

その高級金メッキバージョンが
これである。71年規制後モデル。


ただし、モデルガンメーカー
全社の中で一番綺麗な金メッキ
に仕上げていたのは後発メーカ
ーのコクサイだった。


1972年。
世界初のプラスチック製の
モデルガンが登場した。
それを実行したのはやはり
世界の魁MGCだった。
スイスのSIGオートとアメリカ
のS&Wリボルバーを製品化
した。
ただし、実銃に似せた架空銃
だった。
S&Wは「ハイウェイパトロール
マン」と名付けた口径.41マグ
ナムという謎の銃だった。

実銃原典は1954年発売のNフレ
ームM28の.357マグモデルだ。
M19コンバットマグナムも近い。


謎の.41マグナム。


オリジナルの刻印。


S&Wのロゴはなぜか逆さに
刻印されている。




1972年製。発売されて即買った。
別売り木製グリップ(ローズ)
も買って換装した。


一番最初のABS製モデルガン。
シリンダーと右プレートのみ
材質が違っていてブルー色だ。
バレルとフレームは真っ黒。


規制後の絶望時代に「黒いモデル
ガン」と銘打って登場したこの
モデルは超絶爆発人気となった。


紙火薬の粒をカートリッヂの
先に詰めて撃発させる。
バーンという快音と共に往年
の銃口からの発火も楽しめた。
購入者たちは撃発させまくった。
私もである。
ただ、ごく初期のABSは耐衝撃
性プラとはいっても粘りが無く、
この後10年くらいは簡単に割れ
る素材ばかりだった。
この個体も撃ちまくった結果、
割れた。

しかし、このMGCのプラシリーズ
は当初は「プラスチック~?」と
馬鹿にされて軽んじられていたが、
実際にはとてもよく売れたし、
その後50年経ったのちにもプラが
主流となる道筋を切り拓いた。
何よりも良かったのが、映画や
ドラマのステージガン=プロップ
ガンとして使用できるからだ。
撮影用とはいえ、金属製の拳銃
は所持そのものが禁止になった
からだ。
欠点は、重量が軽い事と割れや
すかった事だけだった。
『太陽にほえろ!』も『ワイル
ド7』も、ほかのドラマも、出
てくる銃はすべてこのMGC
ハイパトになった。
その後MGCのローマンが出た
ら、今度は全ての日本の映画
がローマンになった。

このプラ製モデルガンの登場は
ファンだけでなく映像作品世界
にも光明をもたらしたのだった。


そして、銃口は閉塞されながらも
重さゆえに人気がある金属モデル
と平行して、次々にプラ製モデル
が登場し、モデルガン業界は1960
年代以上に大隆盛を見せる。
それが1973年から1985年あたり
までの時代だった。

だが、その後、エアコッキング
ガンが登場する。
次期を一にして1983年に米国
のネルスポットガスガンでの
マーキング撃ち合いゲームの
「サバイバルゲーム」を日本に
愛知のK氏が紹介導入した。
これはエアコッキングの鼓弾
を使って中て合うゲームで、
射程距離は10mほどだった。
これが徐々に人気を得た。
そして、1985年に世界初の
ガス圧トイガンが登場して
エアガンブームの幕開けと
なった。同時にサバイバル
ゲームが大流行となった。

私はサバゲ第一世代で、登場
した1983年からやり始めた。
だが、同時に「弾の出ない」
モデルガンは捨てがたい魅力
があったので、モデルガンを
捨て去る事はしなかった。
モデルガンとエアソフトガン
は同メーカーが開発するの
で、どんどんエアソフトガン
も実物の銃の形に進化した。
モデルガンファンの数とエア
ソフトガンファンの数が逆転
するのは1980年代末期だった。
結論として、エアガン開発に
移行がうまく進まなかった
MGCは世界初のメーカーで
世界の映画でも使用された
製品を作っていたのに倒産
した。主軸をエアガンでは
なくモデルガンに置いたまま
だったからだ。
客が遠のけば店は潰れる。
MGCはユーザーニーズに応える
かつての天下のメーカーでは
無くなっていた。
そして、中田、CMC、マルホ、
マルゴー等々がモデルガン業界
から撤退した。マルゴーはナイ
フ屋になったし、中田商店は
衣料品屋になって活路を見出し
た。

モデルガンとエアガンを問わず、
トイガンで使用するABS材料の
開発も樹脂メーカーと共同して
進められ、プラ製モデルの材質
がどんどん進化したのも1990年
あたりからだ。
そして、いつの間にか、1971年
の史上最悪の銃刀法改訂は、そ
の中身が有名無実化していった。
材質はプラスチックでも外見上
は質感が格段に向上したからだ。

15年程前のプラ製モデル。
外見上は金属と見分けがつかない。




プラ製材質がまだ未発達の頃
のモデル。
私のチューンナップしたWA
モデル(上)と国本圭一氏が
使っていたSAA(下)。

まだ非常に割れやすかった1970
年代中期の時代の物で、暫く
するとやがて割れて使えなく
なるのを前提とした製品だった。

21世紀のプラ製モデル。
今やプラの質感は金属に迫る。



プラ製のモデルガンやエアガン
では現代では特筆的な事がある。
それは、プラ樹脂にメッキを
かける技術が飛躍的に発達し
た事だ。
今や、どう見ても金属にしか
見えないようなメッキ樹脂は
自動車部品やスポーツ用品
等にも使われている。
そうした技術の転用は玩具銃の
表面処理にも反映されてきた
のである。

プラ製のシルバーメッキ。
クロム処理で実銃と同じような
メッキ仕上げが為されている。
「湯じわ」も一才無し。
非常に綺麗な処理で鑑賞にも
充分耐える。


プラ製品のメッキモデルはモデル
ガンもエアガンも非常に手間が
かかるためかなり高額になるの
だが、メーカーはさして黒色
モデルと差異がない価格設定
でリリースしている。
最近ではゴム製のトイガンも
登場しているが、まだまだプラ
樹脂製のトイガンが日本を中心
に世界に発進される事だろう。


映画『カラミティ・ジェーン』(1953)

2023年05月15日 | open



西部開拓時代の実在の人物の
カラミティ・ジェーンを描い
た実話とは全く関係のない
物語。ミュージカルだ。

 

実際の歴史では女ガンスリンガー
だったジェーンは娘を生むが、
それがワイルド・ビルの子ども
であり、私はビルと結婚していた
と言い張っているようだ。
虚言癖と話を滅茶苦茶にする性格
から「カラミティ=厄介者」と
あだ名をつけられた。
カスター将軍と一緒に仕事をした
とも言っているが、その時期、
カスターはジェーンとは別場所
にいた事が証明されているので、
これもジェーンの虚言であろうと
されている。
ワイルド・ビルと懇意であった
のは確かであるが、婚姻の事実
は一切公式には確認されていな
い。
その後、バッファロー・ビルの

ワイルドウエストショーに参加
しているので、アニー・オーク
レイ本人とも会っているかも知
れない。
実際にはアニーは容姿端麗で
大人気のスーパースターだった
が、ジェーンは男勝りの男装
女子で、容姿もお世辞にも美人
とは呼べなかった。
ただ、映画等では西部のガン
ウーマンとしてよく取り上げら
れる。貧しいきょうだいたちの
面倒を見る為に、多くの仕事に
就いたが、一番向いていたのが
軍隊の斥候のようだった。
その後、売春宿のマダム(日本
でいうところのやり手ババア)
もやったりして生活していた。

映画『カラミティ・ジェーン』
ではジェーンを演じたドリス・
デイ
が可愛い。
本作では若き日のワイルド・ビル

と恋に落ちて結婚する展開とな
っている。
ワイルド・ビルの役はハワード・
キ-ルが演じた。
『アニーよ銃を取れ』(1950)で
アニーと結婚するワイルドウエ
ストショーの花形スターのフラン
ク・バトラーを演じた歌手。
歌うまし。演技もいい。男前。
193センチの長身の俳優。
アメリカで大人気のミュージカル
だった『アニーよ銃を取れ』が
本作品の3年前に製作公開された
が、ドリスもアニー役に適役だっ
たように
思える。だが、ドリス
は身長が170センチ
と長身だから
か、アニー・オークリー
役は回
ってこなかった。

映画『アニーよ銃を取れ』では
実際には小柄だったアニーの役
で当初ジュディ・
ガーランド
(身長151cm)が
決定していた
が、撮影途中で監督と対立して

降板。急遽ベティ・ハットンが
抜擢されて撮影されて大ヒット
となった。

ドリス・デイのカラミティ・

ジェーン。






主演のドリス・デイがどうして
もヴェラ・エレンに見えてしま
う(笑)。

こちらヴェラ・エレン。

それにしても昔の女優さんは
歌も歌えてタップダンスもで
きて、それで乗馬もとても
上手い。
タレントというのは才能という
意味だが、演技に関する多芸
に秀でていたのが昔の俳優陣
であったといえるだろう。
今とは大違い。
ドリス・デイも本作『カラミティ・
ジェーン』ではタップダンスも
やり、歌も歌い、馬を乗りこな
し、そして銃も撃つ。

ドリス・デイのカラミティ。


ドリス・デイと容貌が似ている
ヴェラ・エレンのタップダンス
が歴代女優で最高のように思え
る。

ヴェラ・エレンのダンス。

 





昔のナイフの携行方法

2023年05月15日 | open



これ、アメリカでは一般的。


マッパの時代

2023年05月15日 | open


高校

大学


2ストがいいねぇ、4ストは
久しぶりだよ、なんて言って
たら、2ストどころか4ストの
エンジン
そのものも無くなっ
てしまう
時が来るとは思って
もみなか
った。

今、そこ。



もうすぐ内燃機関搭載車両が
無くなる。
二輪に乗り始めたのが1972年。
生まれて初めて乗ったのは

2才の時だ。ヤマハのYDS-1に
乗せてもらった。
自分で初めて運転した
のは12
才の終わりだ。丁度50年前。

初めは敷地内で走らせてみた。
やがて16で免許を取って、どこ
までも走れる世界を知った。
だが、エンジンそのものが無く
なる時代が間もなくやってくる。
これは50年前の当時には、全く
想像だにしなかった。
しかし、もうすぐそれは現実に
なる。