源氏物語を始めとする日本の王朝物語は、9世紀から11世紀の間に書かれた世界で最初の個人による創作読み物です。
それを可能にしたのは河合先生によると日本が一神教の国でなかったこと、創作を可能にした経済的には安定しているが体制の出世物語に無縁という当時の女性の立場、平仮名の発明によると思われます。
人間は自分の経験したことを、自分のものにする、あるいは自分の心に収めるには、その経験を自分の世界観や人生観の中にうまく組み込む必要があります。その作業こそすなわち、その経験を自分に納得のゆく物語にすることです。心理療法とは来談した人が自らのアイデンティティを探求していくのを助けることです。これは「自分の物語」の創造と同義です。
ここに王朝物語を見ていく意味があるのです。この本は河合隼雄流に「物語」を解釈しています。

「竹取物語」のかぐや姫の消え去る美。
「宇津保物語」の殺人なき争い。
「落窪物語」の継子の幸福。これは個人としての母と娘の分離が述べられているのであり、母性の否定的側面=自立を意識し始めた娘から見た母親像を示している。
「浜松中納言物語」における「トポス」の重要性。
「源氏物語」における紫マンダラ。光源氏は中心にいるのだけど具体的人間像がなく、それは周りにいる女性を描くために必要とされていただけの存在。これはもう少し議論をまとめて「紫まんだら」という本になっています。
原作をよく読んでいればもっと理解は深くなると思うのですが、悲しいかな高校時代に古典で読んだ域をあまり超えていないので、古文を読むのもわずらわしく中途半端なのですが、その意味するところは分かったつもりです。意識と無意識をつなぐものとしての物語の役割の認識、「一人称の死」「二人称の死」の意味づけ、それに対する自分が納得いく「物語」を見出したい、ここに物語の重要性があると思います。
現代人はいろいろな人生のイベントに自分の知る限りの経験と知識を因果的に結び付けて理解しようとする。したがって自分の序今日の原因として「親が悪い」とか「社会が悪い」とか言ってみる。しかし本当の納得は得られない。本当の納得は、知的な因果的把握を超えて、自分の存在全体が「そうだ」という体験をしなくてはいけない。理性と感情の奥底にある魂が「そうだ」といわないとその人の心に落ちない。ここが非常に個別的なので臨床心理学は科学かといわれるところなのですが・・・
外的な現実を他人に伝えるためには、その事実を正確に記述することが必要です。ところが内的体験を他人に伝えるためには「物語る」ことが必要になります。例としてあげてありますが大きな魚を釣った釣り人が事実を伝えるには魚の体長や重さを記述するだけでいいのですが、それを釣った時の感激を伝えるには「物語る」必要があるのです。両手を広げて示す魚の大きさは必ずしも実際の魚の大きさと確実に一致している必要はありません。
各章の合間合間に出てくる人間にとっての物語の重要性を知ることは、自分の人生を振り返ることにも、自分の物語は何なのか考えることにもなります。
古文を飛ばしても大意は理解できますし、河合隼雄先生の文章はいつもながら読みやすい文章ですので一度どうですか。
それを可能にしたのは河合先生によると日本が一神教の国でなかったこと、創作を可能にした経済的には安定しているが体制の出世物語に無縁という当時の女性の立場、平仮名の発明によると思われます。
人間は自分の経験したことを、自分のものにする、あるいは自分の心に収めるには、その経験を自分の世界観や人生観の中にうまく組み込む必要があります。その作業こそすなわち、その経験を自分に納得のゆく物語にすることです。心理療法とは来談した人が自らのアイデンティティを探求していくのを助けることです。これは「自分の物語」の創造と同義です。
ここに王朝物語を見ていく意味があるのです。この本は河合隼雄流に「物語」を解釈しています。

「竹取物語」のかぐや姫の消え去る美。
「宇津保物語」の殺人なき争い。
「落窪物語」の継子の幸福。これは個人としての母と娘の分離が述べられているのであり、母性の否定的側面=自立を意識し始めた娘から見た母親像を示している。
「浜松中納言物語」における「トポス」の重要性。
「源氏物語」における紫マンダラ。光源氏は中心にいるのだけど具体的人間像がなく、それは周りにいる女性を描くために必要とされていただけの存在。これはもう少し議論をまとめて「紫まんだら」という本になっています。
原作をよく読んでいればもっと理解は深くなると思うのですが、悲しいかな高校時代に古典で読んだ域をあまり超えていないので、古文を読むのもわずらわしく中途半端なのですが、その意味するところは分かったつもりです。意識と無意識をつなぐものとしての物語の役割の認識、「一人称の死」「二人称の死」の意味づけ、それに対する自分が納得いく「物語」を見出したい、ここに物語の重要性があると思います。
現代人はいろいろな人生のイベントに自分の知る限りの経験と知識を因果的に結び付けて理解しようとする。したがって自分の序今日の原因として「親が悪い」とか「社会が悪い」とか言ってみる。しかし本当の納得は得られない。本当の納得は、知的な因果的把握を超えて、自分の存在全体が「そうだ」という体験をしなくてはいけない。理性と感情の奥底にある魂が「そうだ」といわないとその人の心に落ちない。ここが非常に個別的なので臨床心理学は科学かといわれるところなのですが・・・
外的な現実を他人に伝えるためには、その事実を正確に記述することが必要です。ところが内的体験を他人に伝えるためには「物語る」ことが必要になります。例としてあげてありますが大きな魚を釣った釣り人が事実を伝えるには魚の体長や重さを記述するだけでいいのですが、それを釣った時の感激を伝えるには「物語る」必要があるのです。両手を広げて示す魚の大きさは必ずしも実際の魚の大きさと確実に一致している必要はありません。
各章の合間合間に出てくる人間にとっての物語の重要性を知ることは、自分の人生を振り返ることにも、自分の物語は何なのか考えることにもなります。
古文を飛ばしても大意は理解できますし、河合隼雄先生の文章はいつもながら読みやすい文章ですので一度どうですか。