【帝塚山大学公開講座で武蔵野美術大学講師・萩原哉氏が講演】
帝塚山大学(奈良市)の市民大学講座が25日開かれ、仏教美術史研究家で武蔵野美術大学講師の萩原哉氏が「塼仏の流伝と三蔵法師玄奘」の演題で講演した。塼仏は粘土を型押しした浮き彫り状の小さな仏像や仏塔。日本には7世紀後半に造営された飛鳥時代の寺院跡などから大量に出土している。萩原氏は中国から日本に伝来した塼仏のルーツをたどりながら「塼仏はインドの文化と美術様式が唐の都・長安を経て日本に伝えられたモデルケースの1つ」などと話した。(写真㊧の2枚は中国・唐時代の「印度仏像塼仏」、㊨は日本・白鳳時代の塼仏)
塼仏は粘土を型抜きすることで容易に大量生産でき、しかも既製の塼仏から型起こしすることで実物と同じ複製品ができるという特色を持つ。寺院の堂塔内の壁面を飾る荘厳具や、念持仏などの礼拝像として用いられたとみられる。仏教発祥のインドでは「遅くとも3世紀頃までに塼仏づくりが始まり、信者の聖地巡礼に伴ってお土産やお守りとして各地に広まった」。塼仏の製作はパーラ朝時代(750~1174年)に最も盛んになった。
中国で製作年代が明らかな塼仏で最も古いものは北魏時代後期の525年の銘が入った方形如来坐像塼仏。釘穴や壁に打ち付けた痕跡があった。「千体仏として壁面全体を塼仏で埋め尽くしたのではないか。こうした仏塔内部の荘厳方法はインドや東南アジアなどでは知られておらず、中国で独自に考案されたのだろう」。
塼仏の製作が一気に活発になるのは初唐時代の7世紀中頃から8世紀にかけて。しかも出土地域は都が置かれていた長安(現在の西安)に限られる。それらの塼仏は刻まれた銘から「印度仏像塼仏」と「善業泥塼仏」に大別される。「印度仏像塼仏」は玄奘(602~664)がインドから経典や仏像とともに持ち帰った奉献板を基に複製されたもので、玄奘の発願でインド式仏塔として建立された大雁塔周辺で多く出土した。玄奘は仏教研究のため629年にインドに向かい、16年後の645年に帰国している。
「善業泥」銘の塼仏も大雁塔周辺で見つかったが、三尊像が彫り込まれたその図様は「基本的な造形を維持しながら『印度仏像』からA類→B類→C類と3つの段階を経て少しずつアレンジしたものになった」。そのうちC類は真ん中の中尊が禅定印を結んだ如来坐像。その図様は「玄奘の信仰と思想を目に見える形で表したものといわれる」。玄奘主導の塼仏の製作はさらなる流行を促して、多宝塔塼仏や小型方形塼仏群など多種多様な塼仏が生まれた。
そうした中で日本には「善業泥塼仏」のうちC類を中心に「玄奘の教学と軌を一にして伝来した」。日本では白鳳時代の660年代創建の奈良・川原寺裏山遺跡で方形三尊塼仏が大量に出土したほか、奈良・橘寺や京都・山崎廃寺でも火頭形(上部中央が尖った形)の三尊塼仏が見つかっている。中国の最新の塼仏様式がほとんど時間差なく日本に渡ってきたわけだ。
萩原氏は「遣唐使として653年に中国に渡り玄奘に直接師事した道昭が、661年の帰朝の際に請来したのではないか」とみる。三尊塼仏が出土した山崎廃寺は670年代に道昭が造営し、行基が山崎院として整備したといわれる。行基は道昭の著名な弟子の1人。「中国の塼仏は玄奘を中心とした子弟関係の中で、弟子の道昭、さらにその弟子行基を通して日本へ継承されたと言えるのではないだろうか」。