本作でジェーン・オースティンの作品に初めて触れたという人には申し訳ないが、はっきり言って原作はもっと良い。そして映像としてはBBC版の方がやはりいい。まあ、文庫本2冊に渡る原作を2時間ほどで納めようとするのが無理なのかもしれないが。
原作は言わずと知れた「Pride & Prejudice」。中野好夫訳では「自負と偏見」(新潮文庫)、富田彬訳では「高慢と偏見」(岩波文庫)、新しいところでは中野康司訳も「高慢と偏見」(ちくま文庫)。 BBC版がNHKで放映されたときは「高慢と偏見」だった(Mr.ダーシー役にはコリン・ファースしかないと意見にはやはり賛成してしまうくらいBBC版は面白い)。まあ、どう訳すかは翻訳者のセンスだが「プライドと偏見」はやっぱりないだろう。プライドはもう外来語として定着しているが、プレジュディスはそうでないということだろうが、これらの外国語をどう訳すかが訳者の力量と思うのだ。
題についての話が長くなってしまったが、映画も題のつけかたのセンスのなさにあっている。もちろん原作がしっかりしているので凡作でもないし、エリザベスを演じたキーラ・ナイトレイの若さはじける力強さ、舞台出身で日本では無名のマシュー・マクファデンのMr.ダーシーもいい。しかし、BBC版では6時間に及ぶ作品、原作もそもそも文庫本上下2巻を描くにははしょりすぎたようだ。イベント中心の描き方になり、オースティン作品の持つ本来の魅力である日常も含めた細かな人間関係の機微、ちょっとした言動、さりげない巧緻がすべて捨象されている。「ハリー・ポッター」シリーズでも映画では原作の細かな描写が切り捨てられ、クディッチといったアクションシーンがヒューチャーされているのと似ているのと相通じるところがあると感じる。
オースティンはわずか6つの長編を綴った寡作。描かれているのは貴族や上流階級とそれに連なる者たちの日常と平々凡々の経験の数々。しかしそのどれもが200年前に書かれた旧さを微塵も感じさせない人間の持つ賢さも愚かさも見事に描ききった普遍性を持つ。賢さとともに愚かさも客観的に描けるのはオースティン自身が近代主義者だった証であろうが、それにしても面白い。「Pride & Prejudice」はもちろん今回の映画で強調されたように若い男女の恋物語と見ることもできるが、もちろんそれだけにとどまらない。エリザベスを取り巻く愚かな母Mrs.ベネットや妹たち、愚かではないが責任感に乏しく怠惰な父Mr.ベネット、同じく愚かではないが優しく人を疑うことを知らない姉ジェーン、そのジェーンを愛する出身の良さだけ、鷹揚さだけが取り柄のボンボンであるMr.ビングリー。映画では詳しくは描かれいないが、描かれていたとしてもどの人もティピカルすぎるのだ。たとえばMrs.ベネットやベネット家の唯一の相続人であるMr.コリンズ、ジュディ・デンチが迫力で演じたキャサリン・ド・バーグ夫人など。これらの人は救いようもないほど愚かであったり、卑屈であったり、尊大であったりするが、映画はちょっと極端すぎる感じがした。これではエリザベスやジェーン、Mr.ダーシー以外は嫌悪の対象にだけなってしまいかねない。まあ、Mrs.ベネットが四六時中にそばにいたら私も嫌であるが。
かなわんなあ、と思いながら付き合い続けるのが人間関係というもの。自分と少しでもあわないと思ったら関係を断ち切る、あるいは、反対意見の人に対しては罵詈雑言を浴びせる現代のたこつぼ状況の中で、オースティンの描く人間観察は冷静にして鋭い。たまのダンスや領地の収穫、近親者の結婚話以外に娯楽のなかった18世紀貴族の生活に波瀾万丈の世界など現出しいないが、そこにも人間を描くには十分な見本が数多くある。そして、そういった見本と付き合っていかなければならないことを、付き合っていく術をオースティンは熟知していた。
この映画で、オースティンの作品に初めて触れたと言う人はぜひ原作にあたってほしい。古谷野敦くらいになると原文にあたって、どの訳がいいかなどと言うが、私にはそんな力はないのでとりあえず「自負と偏見」と題した中野好夫訳をおすすめする。
原作は言わずと知れた「Pride & Prejudice」。中野好夫訳では「自負と偏見」(新潮文庫)、富田彬訳では「高慢と偏見」(岩波文庫)、新しいところでは中野康司訳も「高慢と偏見」(ちくま文庫)。 BBC版がNHKで放映されたときは「高慢と偏見」だった(Mr.ダーシー役にはコリン・ファースしかないと意見にはやはり賛成してしまうくらいBBC版は面白い)。まあ、どう訳すかは翻訳者のセンスだが「プライドと偏見」はやっぱりないだろう。プライドはもう外来語として定着しているが、プレジュディスはそうでないということだろうが、これらの外国語をどう訳すかが訳者の力量と思うのだ。
題についての話が長くなってしまったが、映画も題のつけかたのセンスのなさにあっている。もちろん原作がしっかりしているので凡作でもないし、エリザベスを演じたキーラ・ナイトレイの若さはじける力強さ、舞台出身で日本では無名のマシュー・マクファデンのMr.ダーシーもいい。しかし、BBC版では6時間に及ぶ作品、原作もそもそも文庫本上下2巻を描くにははしょりすぎたようだ。イベント中心の描き方になり、オースティン作品の持つ本来の魅力である日常も含めた細かな人間関係の機微、ちょっとした言動、さりげない巧緻がすべて捨象されている。「ハリー・ポッター」シリーズでも映画では原作の細かな描写が切り捨てられ、クディッチといったアクションシーンがヒューチャーされているのと似ているのと相通じるところがあると感じる。
オースティンはわずか6つの長編を綴った寡作。描かれているのは貴族や上流階級とそれに連なる者たちの日常と平々凡々の経験の数々。しかしそのどれもが200年前に書かれた旧さを微塵も感じさせない人間の持つ賢さも愚かさも見事に描ききった普遍性を持つ。賢さとともに愚かさも客観的に描けるのはオースティン自身が近代主義者だった証であろうが、それにしても面白い。「Pride & Prejudice」はもちろん今回の映画で強調されたように若い男女の恋物語と見ることもできるが、もちろんそれだけにとどまらない。エリザベスを取り巻く愚かな母Mrs.ベネットや妹たち、愚かではないが責任感に乏しく怠惰な父Mr.ベネット、同じく愚かではないが優しく人を疑うことを知らない姉ジェーン、そのジェーンを愛する出身の良さだけ、鷹揚さだけが取り柄のボンボンであるMr.ビングリー。映画では詳しくは描かれいないが、描かれていたとしてもどの人もティピカルすぎるのだ。たとえばMrs.ベネットやベネット家の唯一の相続人であるMr.コリンズ、ジュディ・デンチが迫力で演じたキャサリン・ド・バーグ夫人など。これらの人は救いようもないほど愚かであったり、卑屈であったり、尊大であったりするが、映画はちょっと極端すぎる感じがした。これではエリザベスやジェーン、Mr.ダーシー以外は嫌悪の対象にだけなってしまいかねない。まあ、Mrs.ベネットが四六時中にそばにいたら私も嫌であるが。
かなわんなあ、と思いながら付き合い続けるのが人間関係というもの。自分と少しでもあわないと思ったら関係を断ち切る、あるいは、反対意見の人に対しては罵詈雑言を浴びせる現代のたこつぼ状況の中で、オースティンの描く人間観察は冷静にして鋭い。たまのダンスや領地の収穫、近親者の結婚話以外に娯楽のなかった18世紀貴族の生活に波瀾万丈の世界など現出しいないが、そこにも人間を描くには十分な見本が数多くある。そして、そういった見本と付き合っていかなければならないことを、付き合っていく術をオースティンは熟知していた。
この映画で、オースティンの作品に初めて触れたと言う人はぜひ原作にあたってほしい。古谷野敦くらいになると原文にあたって、どの訳がいいかなどと言うが、私にはそんな力はないのでとりあえず「自負と偏見」と題した中野好夫訳をおすすめする。