kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

イノセント・ボイス 12歳の戦場

2006-03-12 | 映画
本作が文部科学省の」「特別選定作品」であることに意外であるし、少し驚いている。というのは、この作品は紛れもなくアメリカの帝国主義的政策に対する批判であるし、日本もエルサルバドルの軍事政権とは密接に結びついていたからだ。
ちょうど80年代日本が第3世界の軍事/開発独裁政権に種々肩入れし、それに対して当時の左翼勢力などが「反帝国主義」を唱え、アメリカはもちろん日本にも厳しい批判を浴びせていたときの話だ。当時エルサルバドルのことは軍事政権反対勢力であるFMLN(ファラブンド・マルティ民族解放戦線)への支援(といっても具体的にはどうすることだったかわからないが)を呼びかけていた大学生のグループのチラシや、新聞等で知る程度であったが、キューバと激しく対峙していたアメリカが中米の「裏庭化」を目論み、さまざまな介入を行っていたことも知っていた。そしてニカラグアでは社会主義革命政権が誕生し、アメリカが反政府軍を支援、ホンジュラスやグァテマラへのアメリカの軍政支援などに苛立ちを覚えていたものだ(といっても、恥ずかしいが何もしなかった)。
そのエルサルバドルでの内戦下、戦場に生きる少年が12歳になれば無理矢理政府軍に入隊させられ、反政府軍掃討の片棒を担がされる直前の緊張を追った物語である。食事中に突然家に飛び込んでくる銃弾。その銃弾に倒れる隣家の少女。若い女性らは街で突然政府軍に拉致され、ゲリラ側に肩入れしたとして神父までも殺害される。
少年の初恋の少女も家ごと焼かれ、少年らも家を失う。ここには希望が一切ない。内戦はおよそ10年続き、92年には停戦が合意されるが不安な政情に変わりはない。戦場とは戦争とはそういうものだという達観を許さない現実が私たちに迫るのは少年チャバの生きる問いではない。昔のこと、遠いことだから関わりを持たないでおこう、関心を寄せないでおこうとする私たちに対し、昔のことではない、遠いことではない、関係のないことではないと突きつける痛みなのだ。
シャロン首相が瀕死の床にあってもパレスチナの民はフェンスで遮られ身動きできず、イスラエル軍に撃ち殺されるのは日常茶飯事だ。そしてイラクに派兵している日本はもはやイラク人から見れば対戦国となっている。そのイラクの民間人死者3万人。
戦争は遠いことでも昔のことでもない。ましてや日本と全く関わりがないことでもない。チャバが生きながらえたのはほんのたまたまで、いや奇跡でチャバの目前で殺された少年らのほうが多いのだ。その銃口のこちらがわにアメリカの属国たる日本の姿がある。
中米では大地主と結託し、民を貧しいまま押さえつけてきた軍事独裁政権が多く、それらに反抗する広がりの中で「解放の神学」も唱えられた。80年代ほどの激しい内戦は伝えられないが、ベネズエラやチリ、ボリビアなどアメリカと明らかに距離をおく政権が誕生している昨今、それらが「反米」色を露にしているとアメリカが考えたとき(実際にどうかは問題ではなく、それを判断するのは常にアメリカである)、またしても市民に銃口が向けられ、多くの血が流されないとも限らない。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」(日本国憲法前文から)
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魂の発現 エルンスト・バルラハ展

2006-03-12 | 美術
実は本展までエルンスト・バルラハという名を全く聞いたことがなかった。日本でも今回のような大規模な回顧展は初めてだそうである。ドイツ表現主義の仕事はドイツと第2次大戦期同盟国であった日本では比較的早く紹介されたそうである。しかし、ナチスドイツの「頽廃芸術」攻撃で、ヨーロッパにおける彫刻分野での紹介、発掘は遅れ、また日本でも彫刻までは紹介されなかった。もちろんドイツ表現主義を代表するキルヒナーは絵画以外にも版画や彫刻も手がけていたが、彫刻の紹介は少ない。そしてバルラハ。近代彫刻というとロダンとその弟子、ブールデル、マイヨール、デスピオらに焦点が当てられ、ドイツの近代彫刻ーバルラハはもちろん、コルヴィッツなど ー に光があてられることは少ない。しかし、ナチスドイツの恣意的なレッテル貼りによって不遇の制作を余儀なくされた作家は多い。ノルデやディックス、カンディンスキーなども。そして1938年ナチスの伸長する時代に失意のまま世を去ったバルラハ。
バルラハの彫刻を一口で言い表すことなどできないが、まず木彫作品に見いだせる中世ゴシックの影響は見逃せ得ない。筆者はバルラハの木彫にリーメンシュナイダーの人間に対する深い観察眼 ー それは教会彫刻を手がけたキリスト教主題であっても人間の魂により近づいたとも呼ぶべき洞察力の発現に他ならない ー を見た気がしたのだが、ロダン、ブールデルらの言わば人間=生及び動の讃歌的な作品とは対局をなす重い、暗い、静謐な作品群にそれは表れている。
リーメンシュナイダーの彫刻は、こちらが作品を見ているのではなくて、作品の側が、私たちを見ていると表現したのは高柳誠だが(『中世最後の彫刻家 リーメンシュナイダー』五柳書院)、バルラハの彫刻も伏し目がちのかたい表情とはうらはらに、こちらの気配を作品の方こそ感じているようである。
ノミの跡一つ一つにはバルラハの人生の痕跡、いや、両大戦期の暗いドイツの雰囲気やあるいはナチスの度重なる迫害に抗おうとした一彫刻家の悲しみや怒りがこめられているのかもしれない。
代表作「ベルゼルケル(戦士)」や「苦行者」はもちろん荒れた都会の雰囲気に嫌気がさしロシアの農村を旅した後いくつも制作したロシア農民らの姿といい、どの作品も見るものがこちらから主体的な力でもって見ることをやめるのを許さないほど引き込まれること間違いない。
やはり彫刻はいい。
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