kenroのミニコミ

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「見えるがまま」にたどり着けるか  アルベルト・ジャコメッティ展

2006-09-18 | 美術
人出の多い日曜日の午後に美術館には行かないようにしているのだが、今回は事情が違った。その日の午後に館長中原佑介氏の講演があったからである。中原氏がこの4月に兵庫県立美術館の館長に就任したのには驚いたが、こんなに早く講演会に接することができるとはと二重に驚いた。現代彫刻に関する著作も多い中原氏の名前を知ったのは、『ブランクーシ』(86年、美術出版社)の著者であるからである。おそらくブランクーシのことだけをこんなに体系的に著わした日本語での著作はこれをおいて他にないだろう。今夏の休暇を利用してルーマニアはブランクーシの最初の家出先であって、現在ブランクーシ公園のあるトゥルグ・ジュ市になんとか行けないものか計画したのだが他都市をも経て行くには困難なことがわかり断念したばかりだった。ブランクーシの作品が言わば作者に見えたカタチを極限までシンプライズしたものであるとするならば、ジャコメッティの場合は見えたものを見えたままこだわるあまりあそこまでそぎ落とされた肉体(もはや“肉”さえも感じられない)として結実したのではあるまいか。
現代彫刻は難解とも思われがちだが、ジャコメッティの作品は逆に理解しやすいのではないか。いくら細くそぎ落としても女性像なのかそうでないか判るし、彫刻と並んで描いた膨大な量の絵画は被写体の輪郭を捉え切るまで何度も書き直した結果、あのような一瞬ぐちゃぐちゃにも見える描線の数となったことが分かるからである。
本展はジャコメッティの友であり、モデルをつとめた矢内原伊作との親交にスポットをあて展示しているが、もちろん他の作品ー肖像彫刻もーも多い。ジャコメッティの作品はどうしてもあの極端に細長い人物像が思い出されるため「あんな人間はいない」と見限ってしまいそうであるが、実は作品の中で矢内原なり、弟のディエゴあるいは妻のアネットなどを題材にし、作品名にもそう記している胸像等はあのような極端に細長い像とは違っていて「人間らしい」。
極端に細長い像の題はたいてい「裸婦像」とか「女性立像」とかで固有名詞がない。ジャコメッティは見えるものを見えるがままに描いた(彫った)というが、むしろ「見えるがまま」に表現する方が勝手な想像やデフォルメを排して描くよりはるかに難しい。写真であっても被写体にポーズをとらせ、何度も撮り直すことがあるならば「見えるがまま」とは言い難いだろう。ジャコメッティが「見えるがまま」にこだわり、作品に没入していくうちに固有名詞こそ必要なく、女か男か、人間かさえ曖昧になるほど彫り進んだのではあるまいか。そういう意味では「矢内原」とか「アネット」とかモデルの名前がわかる作品はモデルに対する信頼関係とそのモデルを他のモデルとは区別が可能なだけのサインを、いやジャコメッティなりの配慮をしていたのではないか。そう思える。
画家にもいろいろなタイプがあるだろうが、多くの場合作品完成に至るまで多くの習作を遺している。いや、常に書いているのだ。今回出品された多くのスケッチ、新聞の余白やレストランのナプキンや手帳の一片にまで、ジャコメッティの常に納得がいくまで描き続ける姿勢が見て取れて興味深い。
中原氏の講演はロダンがあまりにも見事に人物像を彫り出したので、ロダンは生身の人間の鋳型を作って製作しているに違いないと疑われたというエピソードから始まった。カタチにこだわるということはどういうことか、それが人間を対象にした時、作家の探究心と(非)妥協心が彫刻家も同じ人間であるのにここまで研ぎすまされるということ。ジャコメッティの細長い作品群はその長さだけ相対する者を惹き付ける。
コメント (1)
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