黒木和雄の作品は、「戦争三部作」のうち「TOMORROW/明日」や「父と暮らせば」もそうであったが、モノロークやダイアローグの連続で舞台臭い典型だ。しかし眠たくなるわけではない。それほど一人一人の語り、数名の対話には力があり、嘘くささが感じられない。そのうえ引き込まれるのは原作あるいは脚本の力であると思う。「父と暮らせば」では演技の伸長著しい宮沢りえが魅せたモノローグは説明的すぎるが、映像もなかった戦時期とその後の思いを伝える手段として一番ふさわしいとも思える。
今回のヒロインは原田知世。最初、原田知世の若い頃に似ている女優さんが出ているなあとノー天気に思っていたら、いつまでも若い原田その人であった。脇の俳優人も固い、というか、鹿児島弁はよくわからないけれどあの全体を通して描かれる滑稽さと併せて真剣かつくすっと笑ってしまう当時の庶民の日常がよく描かれていると思うのだ。
「庶民の日常」と書いたが、まさしく銃後だ。それも鹿児島は知覧特攻基地の近く、そして45年3月といえば沖縄へは米軍が上陸、もう最後の捨て石沖縄が陥落すれば本土決戦となる時期、地勢である。でも、庶民の日常は銃前(?)のため、勤労動員、奉仕に明け暮れる毎日とB29が飛んでくる日以外は穏やかな日々。その穏やかな日々が兄の熊本への勤労動員、悦子が仄かに思いを抱いていた学徒動員で鹿児島の地まで出征していた京大出の士官が、おそらくは特攻隊として沖縄への片道切符、訣別を告げにに来たその日を見てもおよそ「穏やか」ではない。けれど、イスラエルに毎日のように空爆されるレバノン、銃撃の止まないガザの現在(いま)ではないにしても、「本土決戦」を経験しなかった日本では、空襲で街を破壊されなかった鹿児島の田舎では「穏やか」と「戦時」の距離が微妙であったのだろう。そしてその微妙さをユーモアを含んで描いたのが本作である。
ヒロインもあの兄も家族みんな皇国日本が戦争に負けるはずない、あるいは負けたらなんて口に出せない雰囲気の中で押さえながら思いを伝え(というか絶対出さない術を彼らは、戦中期の一市民は持っていたのか?
専守防衛は古くさいと、集団的自衛権も可能という安倍政権の今日こそ見なければならない映画であると思う。銃を持つ人の描き方より、銃後の悲しみ、怒り、切なさ、そして弱さこそあの戦争を止められなかった理由であると訴える黒木監督の慟哭に応えなければ、私たちはあの作品を見る資格さえもない。
そう思える作品だ。
今回のヒロインは原田知世。最初、原田知世の若い頃に似ている女優さんが出ているなあとノー天気に思っていたら、いつまでも若い原田その人であった。脇の俳優人も固い、というか、鹿児島弁はよくわからないけれどあの全体を通して描かれる滑稽さと併せて真剣かつくすっと笑ってしまう当時の庶民の日常がよく描かれていると思うのだ。
「庶民の日常」と書いたが、まさしく銃後だ。それも鹿児島は知覧特攻基地の近く、そして45年3月といえば沖縄へは米軍が上陸、もう最後の捨て石沖縄が陥落すれば本土決戦となる時期、地勢である。でも、庶民の日常は銃前(?)のため、勤労動員、奉仕に明け暮れる毎日とB29が飛んでくる日以外は穏やかな日々。その穏やかな日々が兄の熊本への勤労動員、悦子が仄かに思いを抱いていた学徒動員で鹿児島の地まで出征していた京大出の士官が、おそらくは特攻隊として沖縄への片道切符、訣別を告げにに来たその日を見てもおよそ「穏やか」ではない。けれど、イスラエルに毎日のように空爆されるレバノン、銃撃の止まないガザの現在(いま)ではないにしても、「本土決戦」を経験しなかった日本では、空襲で街を破壊されなかった鹿児島の田舎では「穏やか」と「戦時」の距離が微妙であったのだろう。そしてその微妙さをユーモアを含んで描いたのが本作である。
ヒロインもあの兄も家族みんな皇国日本が戦争に負けるはずない、あるいは負けたらなんて口に出せない雰囲気の中で押さえながら思いを伝え(というか絶対出さない術を彼らは、戦中期の一市民は持っていたのか?
専守防衛は古くさいと、集団的自衛権も可能という安倍政権の今日こそ見なければならない映画であると思う。銃を持つ人の描き方より、銃後の悲しみ、怒り、切なさ、そして弱さこそあの戦争を止められなかった理由であると訴える黒木監督の慟哭に応えなければ、私たちはあの作品を見る資格さえもない。
そう思える作品だ。