FGM(女性性器切除)が広く知られるようになったのは、やはり国連世界女性北京会議(95年)以降のことではないだろうか。北京会議ではマイノリティやエスニックピープルの女性の解放が討議されたように思うし、アリス・ウォーカーの「カラーパープル」が映画化されてちょうど10年の歳月が流れた(奇しくも日本では旧「男女雇用均等法」施行年でもある)タイミングであったからのようにも思える。しかし、今FGMの映画がアフリカの監督の手によってやっと映画化されたことに解放の遠い道のりも感じる。が、これをアフリカやイスラム社会の後進性、前近代性、野蛮性に求めるのは間違っている。もちろんFGMの因習はイスラムと何の関係もない。
そして「遅れた地域」における女性の地位が性的搾取によっても構成されているとするオリエンタリズム(批判)は、FGMを語る上でも有効だろう。問題は北京会議で知られるようになってから10年の歳月が流れているにもかかわらず、いまだアフリカやアラビア半島などの地域で毎年1億5千万人もの女性がFGMの脅威にさらされ被害を受けているということ。映画は自己のFGMによって二人の子どもを死産し、帝王切開で産まれた子どもにはFGMを受けさせなかった地主の第2夫人コレのもとにFGMから逃げて来た女の子4名を保護するところからはじまる。
FGMや一夫多妻性をアフリカあるいはイスラム社会の未開性や野蛮性に求めるなら、9.11以降狂信的に愛国主義をふりかざし、イラクで10万の無辜の民を殺したアメリカも十分野蛮である。さらに言うなら、10年たってもFGMを撲滅、改善することができなかったアフリカではルワンダ虐殺(94年~)、ソマリア内戦(91年~、暫定政府は2000年~)、ブルンジ内戦(暫定政権2001年~)などFGMまで手が届かなかったとの言い訳になりかねない国連が有効な停戦の手だてを打てなかったことも大きいのではないか。そして、非合理的なアフリカ社会の知恵 その典型が4人の女の子を匿うのに「モーラーデ(保護)」をコレがはじめ、それを第1夫人や第2夫人も支援するという構図 は、近代社会では見られなくなった最後の扶助、たとえFGM術師も手を出せない崇高なタブーである。モーラーデは結界や駆け込み寺を想像すると分かりやすいのかもしれないが、家長のメンツでコレを鞭打つ夫もコレの決意に負け、また、フランス帰りの村長の息子もテレビやラジオから得る世界情勢やその他情報獲得の有用性から女たちのFGM反対を支持する。
因習と科学の衝突時には血が流されるのも歴史であり、女性らに「言い寄り」、コレの鞭打ちを制止した村の商人「兵隊さん」は、村人たちに殺され、コレにもとに逃げてきた一番小さな少女はFGMを無理矢理受けさせられ命を落とす。
しかし、アメリカの学校では銃が乱射される報道を聞くにつけ、飛び道具が発達していない社会ではその殺戮も止められるのではないかとさえ思えてくる。楽観的にすぎるかもしれないが。
モーラーデを通したコレを同じ痛みを持つ女性らが支持する、「私たちはもう切らせない」と。
現在日本ではジェンダー(バイアス)バッシングともいえるバックラッシュが喧しい。女性を自己決定のできない地位に貶めることなどもうできないのに、家父長制への懐古は遠い国の問題ではない。
そして「遅れた地域」における女性の地位が性的搾取によっても構成されているとするオリエンタリズム(批判)は、FGMを語る上でも有効だろう。問題は北京会議で知られるようになってから10年の歳月が流れているにもかかわらず、いまだアフリカやアラビア半島などの地域で毎年1億5千万人もの女性がFGMの脅威にさらされ被害を受けているということ。映画は自己のFGMによって二人の子どもを死産し、帝王切開で産まれた子どもにはFGMを受けさせなかった地主の第2夫人コレのもとにFGMから逃げて来た女の子4名を保護するところからはじまる。
FGMや一夫多妻性をアフリカあるいはイスラム社会の未開性や野蛮性に求めるなら、9.11以降狂信的に愛国主義をふりかざし、イラクで10万の無辜の民を殺したアメリカも十分野蛮である。さらに言うなら、10年たってもFGMを撲滅、改善することができなかったアフリカではルワンダ虐殺(94年~)、ソマリア内戦(91年~、暫定政府は2000年~)、ブルンジ内戦(暫定政権2001年~)などFGMまで手が届かなかったとの言い訳になりかねない国連が有効な停戦の手だてを打てなかったことも大きいのではないか。そして、非合理的なアフリカ社会の知恵 その典型が4人の女の子を匿うのに「モーラーデ(保護)」をコレがはじめ、それを第1夫人や第2夫人も支援するという構図 は、近代社会では見られなくなった最後の扶助、たとえFGM術師も手を出せない崇高なタブーである。モーラーデは結界や駆け込み寺を想像すると分かりやすいのかもしれないが、家長のメンツでコレを鞭打つ夫もコレの決意に負け、また、フランス帰りの村長の息子もテレビやラジオから得る世界情勢やその他情報獲得の有用性から女たちのFGM反対を支持する。
因習と科学の衝突時には血が流されるのも歴史であり、女性らに「言い寄り」、コレの鞭打ちを制止した村の商人「兵隊さん」は、村人たちに殺され、コレにもとに逃げてきた一番小さな少女はFGMを無理矢理受けさせられ命を落とす。
しかし、アメリカの学校では銃が乱射される報道を聞くにつけ、飛び道具が発達していない社会ではその殺戮も止められるのではないかとさえ思えてくる。楽観的にすぎるかもしれないが。
モーラーデを通したコレを同じ痛みを持つ女性らが支持する、「私たちはもう切らせない」と。
現在日本ではジェンダー(バイアス)バッシングともいえるバックラッシュが喧しい。女性を自己決定のできない地位に貶めることなどもうできないのに、家父長制への懐古は遠い国の問題ではない。