「死に神」鳩山邦夫法務大臣が交代した。2ヶ月ごとに死刑執行命令に署名し、「法相が絡まなくても自動的に死刑執行が進むような方法」まで言及した鳩山氏が法務大臣である限り、いったい何人もの人が死刑執行されるのでであろうと危惧していた。後任の保岡
氏は法曹資格者であるが、前に法務大臣であったときに死刑執行しているので当分日本で死刑が止むことはないであろう。
鳩山氏を「死に神」呼ばわりすることが適切かどうかが、いつしか法務大臣が直接の職務である死刑執行することの是非に論点が変わり、朝日新聞が被害者団体に過剰な謝罪をしてことを終息させたように見えたのだが、このような見立ては間違っているだろうか。
本題は鳩山法相のキャラクターのことではない。世界の7割が法律上、事実上死刑を廃止している現状であらためて死刑制度を「問う」ことである。先進国日本で死刑制度支持が8割との報道もある。光母子殺人事件差し戻し審判決当日、裁判長が死刑を言い渡したと法廷外に伝わったとき拍手と歓声が起こった国である。
殺人被害者の遺族が死刑を望むというのは分からないでもない。しかし、直接遺族とも関係のない人が死刑を望む、それも声高にというのは奇異な感じが否めない。それほど人の死を望むものなのだろうか。これが死刑存置80%の実態なのだろうか。
来年5月に裁判員制度が始まる。制度反対、参加したくないという理由の大きな一つに裁判など難しいもの、やっかいなものに関わりたくないというのがある。裁判官3名、裁判員6名という構成体と変則多数決、公判前整理手続には裁判員は参加しない争点の取り扱い、部分判決など制度の欠陥は多い。しかし、難しそうなものは嫌だ、やっかいなものに一般の人を巻き込まないでくれというのは明らかに主権放棄である。確かに、日本の裁判制度は民主的基盤を持たないから憲法判断には謙抑的でなければならないなどと憲法判断回避の根拠として説明されてきた。しかし、市民が参加する裁判員制度には裁判所の判断に市民が実施的に関与するまさに主権行使の機会である。そして、裁判員制度の対象裁判は死刑などを含む重大事件に限定されており、当然憲法判断と無縁ではない。
死刑制度について、日本国民は国が凶悪犯を殺してくれる制度だと思っている節がある。しかし、死刑囚を実際執行する権力を行使するのは一人法務大臣ではない。法務大臣とて選挙で選ばれた人である可能性があるし、そもそもそのような法務大臣を選出した内閣を構成するよう時の与党を選んだ、あるいは、そのような議院内閣制を支持したのは他ならぬ有権者なのだ。そして制度は国民に支持されているから生きながらえているのであり(現に死刑支持80%である)、国が殺してくれるという他責的態度は間違っている。主権者として自分が死刑制度を存続させ、そして執行するのだという意識がないのが事実であると思う。国が殺すのではない、あなたが、私が殺すのだ。
死刑を存置するなら、現在のように法務大臣のキャラクターに依るものではなく、くじで選ばれた国民が署名、あるいは現在刑務官に押しつけている執行を実際行うようなシステムにしてはどうかという提案は肯える。同時にどのように死刑囚が遇されているか、どのように執行されているのか私たちはあまりにも無知である。それほどまでに情報遮断の死刑を支持する想像力のなさこそ、主権放棄こそ恐いのだ。「天皇陛下のために」の一言で思考停止に陥り、国民こぞって死を美とした全体主義国家の経験者として。
アメリカの死刑囚の更正活動を丹念に追い、「ライファーズ」を制作した坂上香さんは、リストラティブ・ジャスティス(修復的司法)の先進的紹介者でもある。オウム真理教の信者の日常をバイアスなく映した森達也さんは「殺すな」の地平から死刑に関する近著を著している。他にも日本の殺人事件は実際には家族間が多く、遺族とは加害者であるなど冷静に犯罪白書にかかわる数値を紹介するなど本号の読みどころは多い。
偽装、涜職、言論の自由なしとオリンピック開催の中国の非民主制をあげつらう前に、中国と同様に死刑執行しまくっているこの国のことを考えてみてはどうだろう。
氏は法曹資格者であるが、前に法務大臣であったときに死刑執行しているので当分日本で死刑が止むことはないであろう。
鳩山氏を「死に神」呼ばわりすることが適切かどうかが、いつしか法務大臣が直接の職務である死刑執行することの是非に論点が変わり、朝日新聞が被害者団体に過剰な謝罪をしてことを終息させたように見えたのだが、このような見立ては間違っているだろうか。
本題は鳩山法相のキャラクターのことではない。世界の7割が法律上、事実上死刑を廃止している現状であらためて死刑制度を「問う」ことである。先進国日本で死刑制度支持が8割との報道もある。光母子殺人事件差し戻し審判決当日、裁判長が死刑を言い渡したと法廷外に伝わったとき拍手と歓声が起こった国である。
殺人被害者の遺族が死刑を望むというのは分からないでもない。しかし、直接遺族とも関係のない人が死刑を望む、それも声高にというのは奇異な感じが否めない。それほど人の死を望むものなのだろうか。これが死刑存置80%の実態なのだろうか。
来年5月に裁判員制度が始まる。制度反対、参加したくないという理由の大きな一つに裁判など難しいもの、やっかいなものに関わりたくないというのがある。裁判官3名、裁判員6名という構成体と変則多数決、公判前整理手続には裁判員は参加しない争点の取り扱い、部分判決など制度の欠陥は多い。しかし、難しそうなものは嫌だ、やっかいなものに一般の人を巻き込まないでくれというのは明らかに主権放棄である。確かに、日本の裁判制度は民主的基盤を持たないから憲法判断には謙抑的でなければならないなどと憲法判断回避の根拠として説明されてきた。しかし、市民が参加する裁判員制度には裁判所の判断に市民が実施的に関与するまさに主権行使の機会である。そして、裁判員制度の対象裁判は死刑などを含む重大事件に限定されており、当然憲法判断と無縁ではない。
死刑制度について、日本国民は国が凶悪犯を殺してくれる制度だと思っている節がある。しかし、死刑囚を実際執行する権力を行使するのは一人法務大臣ではない。法務大臣とて選挙で選ばれた人である可能性があるし、そもそもそのような法務大臣を選出した内閣を構成するよう時の与党を選んだ、あるいは、そのような議院内閣制を支持したのは他ならぬ有権者なのだ。そして制度は国民に支持されているから生きながらえているのであり(現に死刑支持80%である)、国が殺してくれるという他責的態度は間違っている。主権者として自分が死刑制度を存続させ、そして執行するのだという意識がないのが事実であると思う。国が殺すのではない、あなたが、私が殺すのだ。
死刑を存置するなら、現在のように法務大臣のキャラクターに依るものではなく、くじで選ばれた国民が署名、あるいは現在刑務官に押しつけている執行を実際行うようなシステムにしてはどうかという提案は肯える。同時にどのように死刑囚が遇されているか、どのように執行されているのか私たちはあまりにも無知である。それほどまでに情報遮断の死刑を支持する想像力のなさこそ、主権放棄こそ恐いのだ。「天皇陛下のために」の一言で思考停止に陥り、国民こぞって死を美とした全体主義国家の経験者として。
アメリカの死刑囚の更正活動を丹念に追い、「ライファーズ」を制作した坂上香さんは、リストラティブ・ジャスティス(修復的司法)の先進的紹介者でもある。オウム真理教の信者の日常をバイアスなく映した森達也さんは「殺すな」の地平から死刑に関する近著を著している。他にも日本の殺人事件は実際には家族間が多く、遺族とは加害者であるなど冷静に犯罪白書にかかわる数値を紹介するなど本号の読みどころは多い。
偽装、涜職、言論の自由なしとオリンピック開催の中国の非民主制をあげつらう前に、中国と同様に死刑執行しまくっているこの国のことを考えてみてはどうだろう。