kenroのミニコミ

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その情景の背後が描けるか  子供の情景

2009-05-03 | 映画
イラクからの撤兵を表明したアメリカ・オバマ政権は同時にアフガニスタンへの増兵も明らかにした。9・11の実行犯をアルカイダとし、その全面支援国家(勢力)をアフガン政権のタリバーンとしたアメリカはアフガニスタンへ派兵し、これまで5万人もの兵力をつぎ込み、民間人死者は5千人超とも言われる。同時に難民は10万人とも言われ、アフガニスタンをめぐる状況は決して安定しているとはいいがたい。
タリバーンの偏狭な圧政についてはこれまでも描かれ(忘れてはいけないアフガニスタン~  ヤカオランの春 http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/db317ee7e05a0d2bdb2d262059c3c504)、それが女性差別をあからさまに示しているという点で肯じえない。そしてそれは本作で十分に判断材料を提示している。
6歳の少女バクタイは隣の男の子が読み書きの練習をしているの見て自分も学校に行きたいと思う。しかし学校に行くにはノートと鉛筆がいる。ノートを買うため、子守を放り出して、市場に卵を売りに行く。なんとかノートを手に入れるが、学校に向かう途中、悪童にノートをちぎられてしまう。隣の男の子の学校にたどり着けば、女の子の学校は川の向こうという。また一所懸命学校めざし…。
ここで描かれているキツイ現実の一つは、女性に教育はいらないとするタリバーンの考えが子どもたちにも蔓延しているということと、もう一つは子どもたちがタリバーンの真似をして戦争ごっこに興じる様。もちろんアフガニスタン以外のイスラム社会で国家政策として女子教育を禁止するなどありえないが、タリバーンの時代、女子教育は禁止され、女性は家に閉じこめられていた。そしてあの体をすっぽり隠すブルカ。
ハナ・マフマルバフ監督は、子どもらのタリバーンをかたった戦争ごっこを、撮影の準備で実際に見たから作品中に取り上げたという。日本のようにモノがあふれている子どもらの戦争ごっこは、最新鋭の銃などの武器が登場するだろうが、アフガンの子どもらは枝を銃に見立てて、あとは口で音を出すだけだ。でもバクタイには恐いし、少年らの目は本当にタリバーンが乗り移ったかのよう。
タリバーン政権が倒れたとき、あまりにも短期間で倒れたため結局、タリバーンは民衆の支持がなかったためと解説されていたが、なるほど、そうかもしれないが現実の子どもたちはタリバーンの真似をし、実際パキスタン国境付近はタリバーンの勢力が強いという。女性を極端に社会的排除する政策、盗みをした者は手を切り落とすなど前近代的な厳罰主義などタリバーンを支持はできないにしても、無差別爆撃を繰り返す米軍への反発からタリバーンへの傾斜という民衆意識や実態は理解できる。
それにしてもバクタイの力強さはどうだ。卵が新鮮だよと売り歩き、「戦争ごっこはイヤ」と言い放ち、悪童らの攻撃にひるまない姿は、イラン人監督ハナ・マフマルバフの女性の地位が高まりつつあるイランの現況と、監督がイランの名監督モフセン・マフマルバフの娘にして映画監督。いわば帝王教育を受けた証故ともまみえる。
しかし、監督の描きたかったのは、あくまでアフガンの現実である。ソ連に侵攻され、タリバーン政権の恐怖を味わい、今は米軍の傀儡カルザイ政権のもとですべてアメリカの言うがまま(もちろん、日本もその片棒を担いでいる)のアフガンの民に自分で撰び、切り拓くものなどないという現実。その現実が、バクタイが悪童に襲われたとき、隣の男の子が「自由になりたかったら、死ぬんだ」というアドバイスに収斂されているのだ。
アフガンの子供の情景は大人の情景であるということに気づかないではいられない。
コメント
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