「ラ・バヤデール」という演目は、オリエンタルであるけれど、その国籍性に違和感もあり、オリエンタリズムが強く出ると余計に距離を感じてしまい、あまり積極的に見たいと思うものではなかった。であるから、今回久しぶりに見に行ったのは、実は演目ではなく、上野水香目当てであった。
ある意味、上野水香のニキヤ役は合っていると思う。というのは、実は、「ラ・バヤデール」を観るのは3回目なのだが、初めて観たベルリン国立バレエ団の公演は遅刻したこともあり、ストーリーをきちんと予習していなかったため、スケールに圧倒されたけれどもバレエの良さを感じるまでには至らなかった(というか、筆者がバレエの面白さに触れるにまだまだ至らなかった)。その時にはニキヤを演じるダンサーの細かいところまで気が回らなかった。
「ラ・バヤデール」とは不思議な演目である。インドが舞台だが、西洋のオリエンタリズム観(マネが「オダリスク」で固定化させ、サイードが喝破した「オリエンタリズム」要素ももちろんある。)がこれでもかと現出するからだ。西洋のオリエタンリズム観には、未視の世界への憧れももちろんあるが、その圧倒的な無知故の蔑視とそれを前提にした決めつけを見逃すわけにはいかない。それが現代、バレエの世界に直接反映しているとも思わない。しかし、「ラ・バヤデール」というアジア、あるいはイスラム世界を題材にした作品ではおのずとそのアジア観、イスラム観が見て取れるし、それが実際のアジア像、イスラム社会を映しているものなら異を唱えるまでもないが、19世紀、いや、現在も生きながらえているオリエンタリズムを反映しているものであるからだ。
東京バレエ団の本公演のよいところは、ダンサーが皆日本人であるため、ムリにオリエンタリズムさを出さなくて済んだこと。ヨーロッパの著名バレエ団が「ラ・バヤデール」やその他の演目を演じるとき(「くるみ割り人形」などもそう)、そこには妙にオリエンタルな装いをまとおうとし、アジアの人間から見ればそれはないだろう、という突っ込みも入れたくなるほどの西アジアから東アジアまで玉石混交ぶりである。西アジアのイスラム世界、ヒンズーの南アジアと仏教系の東アジアは、アジアの民からすればそれらは全く別物である。しかし、オリエンタリズム観に支配された西洋人にはそこはささいな違いと思えたのかもしれない。傲慢さも内包しつつ。
上野水香のニキヤが合っていると先述したが、それは上野は10頭身かとまみえるほど小顔で、日本人ばなれした手足の長さを誇っている(世代上の吉田都は西洋人に比して腕の短さに苦労したという)からとは相反しそうだ。しかし、上野の表情はアジアの人そのものである。そして日本人ダンサーの中では小柄な方ではないが、西洋人からすれば華奢そのものである。それが、「ラ・バヤデール」で登場すると肢体の西洋人性と併せて奥深い魅力を醸し出す。脂が乗っている時期と言われる上野は、その鋭いポワントも表現力も観者の期待を裏切らない迫力に満ちている。
上野のことばかり書いたが、上野は今回このニキヤ役は初めてであるそうで、とても好もしく見て取れた。若いダンサーの多い東京バレエ団は、ますます勢いを増し、さびれることのない活力を見せつけた。ブロンズ像を演じた松下裕次の切れ、ソロルの高岸直樹もベテランを感じさせないはつらつさと思う。そしてあえて苦言。コール・ド・バレエこそ、「ラ・バヤデール」の醍醐味の一つだと思うが(長野由紀『バレエの見方』)、せっかく西洋人やバレエ団にはない体格の統一性があるのに、少しずれた。
ダンス・カンパニーの純血主義とからんで美しさとは何かを選ぶ視点の違いを自覚する苦い選択である。
ある意味、上野水香のニキヤ役は合っていると思う。というのは、実は、「ラ・バヤデール」を観るのは3回目なのだが、初めて観たベルリン国立バレエ団の公演は遅刻したこともあり、ストーリーをきちんと予習していなかったため、スケールに圧倒されたけれどもバレエの良さを感じるまでには至らなかった(というか、筆者がバレエの面白さに触れるにまだまだ至らなかった)。その時にはニキヤを演じるダンサーの細かいところまで気が回らなかった。
「ラ・バヤデール」とは不思議な演目である。インドが舞台だが、西洋のオリエンタリズム観(マネが「オダリスク」で固定化させ、サイードが喝破した「オリエンタリズム」要素ももちろんある。)がこれでもかと現出するからだ。西洋のオリエタンリズム観には、未視の世界への憧れももちろんあるが、その圧倒的な無知故の蔑視とそれを前提にした決めつけを見逃すわけにはいかない。それが現代、バレエの世界に直接反映しているとも思わない。しかし、「ラ・バヤデール」というアジア、あるいはイスラム世界を題材にした作品ではおのずとそのアジア観、イスラム観が見て取れるし、それが実際のアジア像、イスラム社会を映しているものなら異を唱えるまでもないが、19世紀、いや、現在も生きながらえているオリエンタリズムを反映しているものであるからだ。
東京バレエ団の本公演のよいところは、ダンサーが皆日本人であるため、ムリにオリエンタリズムさを出さなくて済んだこと。ヨーロッパの著名バレエ団が「ラ・バヤデール」やその他の演目を演じるとき(「くるみ割り人形」などもそう)、そこには妙にオリエンタルな装いをまとおうとし、アジアの人間から見ればそれはないだろう、という突っ込みも入れたくなるほどの西アジアから東アジアまで玉石混交ぶりである。西アジアのイスラム世界、ヒンズーの南アジアと仏教系の東アジアは、アジアの民からすればそれらは全く別物である。しかし、オリエンタリズム観に支配された西洋人にはそこはささいな違いと思えたのかもしれない。傲慢さも内包しつつ。
上野水香のニキヤが合っていると先述したが、それは上野は10頭身かとまみえるほど小顔で、日本人ばなれした手足の長さを誇っている(世代上の吉田都は西洋人に比して腕の短さに苦労したという)からとは相反しそうだ。しかし、上野の表情はアジアの人そのものである。そして日本人ダンサーの中では小柄な方ではないが、西洋人からすれば華奢そのものである。それが、「ラ・バヤデール」で登場すると肢体の西洋人性と併せて奥深い魅力を醸し出す。脂が乗っている時期と言われる上野は、その鋭いポワントも表現力も観者の期待を裏切らない迫力に満ちている。
上野のことばかり書いたが、上野は今回このニキヤ役は初めてであるそうで、とても好もしく見て取れた。若いダンサーの多い東京バレエ団は、ますます勢いを増し、さびれることのない活力を見せつけた。ブロンズ像を演じた松下裕次の切れ、ソロルの高岸直樹もベテランを感じさせないはつらつさと思う。そしてあえて苦言。コール・ド・バレエこそ、「ラ・バヤデール」の醍醐味の一つだと思うが(長野由紀『バレエの見方』)、せっかく西洋人やバレエ団にはない体格の統一性があるのに、少しずれた。
ダンス・カンパニーの純血主義とからんで美しさとは何かを選ぶ視点の違いを自覚する苦い選択である。