ケン・ローチも好々爺になったか。いや、ローチは自身コミュニストであることを認めているから本来オプティミストであるのかもしれない。もっとも本作はローチが発案したのはなく、エリック・カントナ自身が持ち込んだ企画にローチとずっと組んできた脚本家のポール・ラヴァティが乗って実現したらいしいのだ。それもローチが部類のサッカーファンであったことが幸いしたらしい。イギリスではサッカーは下層階級のスポーツで上流階級はラグビーやクリケットその他である。労働者階級出身のローチだがオックスフォード大学で法律を学んだ後、BBCで映像演出を始めたのは知られているが、熱烈なサッカーファンだったとは。そしてエリック・カントナがマンチェスター・ユナイテッド(MU)のサポーターでなくともサッカーファンなら知らない者はいないほどのスーパースターであったことも本作の成功の所以である。
ストーリーはとても簡単だ。万事に自信を持てず、息子らとの関係もうまくいっていない(リトル)エリックが、別れた妻に久しぶりに会って動揺してしまい、事故を起こす。いよいよ落ち込むエリックの前に本物の(ビッグ)エリック(・カントナ)が現れ、アドバイスして最後は息子との関係も、うまくいき、妻ともよりがもどりそう、万事めでたし。ただそれだけ。
ローチの描く世界にはしがない労働者がいっぱい出てくる。そして時にはギャングと関わらざるを得なかったり、人を死に追いやってしまったり、救いようのない結末も多い。しかし、本作は単純なハッピーものと言える。運よく誰も傷ついていない。そして本作でローチの描きたかったのは、イギリスという国の生の姿と労働者が仲間として助け合う大切さである。と思う。
イギリスの生の姿とは。まずエリックをめぐる家族関係。別れた妻リリーとの間にサムという娘がいるが、赤ん坊を抱えているが夫の姿は出てこず、エリックとリリーに子守を助けてもらい大学に通っている。つまりサムは母子家庭で30歳位くらいだが大学生。次に2番目の妻が二人の連れ子をエリックのもとに置いて出て行ってしまうのだが、二人は肌の色が違うので父親は別々であろうし、そもそもエリックと血縁関係はない。ステップファミリーだ。妻が出て行ったのが7年前という設定であるのでエリックもその間父子家庭で、高校生くらいと小学生くらいの男の子は手に負えなくなっている。いや、エリックも子育てには自信もなく積極的でもなかったのかもしれない。ギャングと関わった長男を最後には助けて「父」として見直されるのだが、エリックを助けたのは仲間、郵便局の同僚である。そう、ビッグ・エリックに語るのは「仲間を信じろ。仲間を大切にしろ」
01年「ナビゲーター ある鉄道員の物語」でローチが描いたのはサッチャー政権で国営鉄道が民営化され、必要な人員が配置されず安全性が損なわれる姿だった。サッチャーの後メージャー、労働党政権になっても新しい労働(党)(ニューレイバー)を打ち立てたブレア政権で国営企業の民営化、競争化は止まらなかった。いや加速した。それが、現在行きすぎた規制緩和で安全性が損なわれているとして労働党ブラウン政権、現在の保守党キャメロン政権で見直しがはかられているという。
皮肉なものだ。政権が競争原理に走りすぎ、それに歯止めを考え出したときローチはハッピーな物語を撮るとは。しかし、これは言えるだろう。規制緩和だろうがなんだろうが、家族の形態が自由化しても、それによって差別されてはいけないことを、人種や宗教によって生存権が脅かされてはいけないことを。そしてそれらしてはいけないことをきちんと「いけない」と行動するのは、理不尽を跳ね返そうと支えるのは事情を分かった近しい仲間であることを。
好々爺になった?ローチだが、プロレタリアートが「連帯」する本質は描かないではおられないようである。競争原理ゆえの優勝劣敗というリバタリアニズムの現在、もう一度、働く仲間を見直そうという古めかしいメッセージにこそローチの優しさを見る。けれどやっぱり昔のようなキツい作品が見たいなあ。
ストーリーはとても簡単だ。万事に自信を持てず、息子らとの関係もうまくいっていない(リトル)エリックが、別れた妻に久しぶりに会って動揺してしまい、事故を起こす。いよいよ落ち込むエリックの前に本物の(ビッグ)エリック(・カントナ)が現れ、アドバイスして最後は息子との関係も、うまくいき、妻ともよりがもどりそう、万事めでたし。ただそれだけ。
ローチの描く世界にはしがない労働者がいっぱい出てくる。そして時にはギャングと関わらざるを得なかったり、人を死に追いやってしまったり、救いようのない結末も多い。しかし、本作は単純なハッピーものと言える。運よく誰も傷ついていない。そして本作でローチの描きたかったのは、イギリスという国の生の姿と労働者が仲間として助け合う大切さである。と思う。
イギリスの生の姿とは。まずエリックをめぐる家族関係。別れた妻リリーとの間にサムという娘がいるが、赤ん坊を抱えているが夫の姿は出てこず、エリックとリリーに子守を助けてもらい大学に通っている。つまりサムは母子家庭で30歳位くらいだが大学生。次に2番目の妻が二人の連れ子をエリックのもとに置いて出て行ってしまうのだが、二人は肌の色が違うので父親は別々であろうし、そもそもエリックと血縁関係はない。ステップファミリーだ。妻が出て行ったのが7年前という設定であるのでエリックもその間父子家庭で、高校生くらいと小学生くらいの男の子は手に負えなくなっている。いや、エリックも子育てには自信もなく積極的でもなかったのかもしれない。ギャングと関わった長男を最後には助けて「父」として見直されるのだが、エリックを助けたのは仲間、郵便局の同僚である。そう、ビッグ・エリックに語るのは「仲間を信じろ。仲間を大切にしろ」
01年「ナビゲーター ある鉄道員の物語」でローチが描いたのはサッチャー政権で国営鉄道が民営化され、必要な人員が配置されず安全性が損なわれる姿だった。サッチャーの後メージャー、労働党政権になっても新しい労働(党)(ニューレイバー)を打ち立てたブレア政権で国営企業の民営化、競争化は止まらなかった。いや加速した。それが、現在行きすぎた規制緩和で安全性が損なわれているとして労働党ブラウン政権、現在の保守党キャメロン政権で見直しがはかられているという。
皮肉なものだ。政権が競争原理に走りすぎ、それに歯止めを考え出したときローチはハッピーな物語を撮るとは。しかし、これは言えるだろう。規制緩和だろうがなんだろうが、家族の形態が自由化しても、それによって差別されてはいけないことを、人種や宗教によって生存権が脅かされてはいけないことを。そしてそれらしてはいけないことをきちんと「いけない」と行動するのは、理不尽を跳ね返そうと支えるのは事情を分かった近しい仲間であることを。
好々爺になった?ローチだが、プロレタリアートが「連帯」する本質は描かないではおられないようである。競争原理ゆえの優勝劣敗というリバタリアニズムの現在、もう一度、働く仲間を見直そうという古めかしいメッセージにこそローチの優しさを見る。けれどやっぱり昔のようなキツい作品が見たいなあ。