kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

描く者の真実の吐露「汝の目を信じよ! 統一ドイツ美術紀行」(徐京植 著)

2011-01-28 | 書籍
徐京植さんの美術関係著作はたいがい読んでいるが、徐さんの発掘でフェリックス・ヌスバウムという名も知ったし、オットー・ディックスの「戦争祭壇画」やエミール・ノルデの「描かれざる絵」のことも知ることができた。徐さんは、ナチスドイツにより迫害された画家のみならずアウシュビッツから生還した医師にも目を向け、その足跡と思念を丹念に追跡してもいる(『プリーモ・レーヴィへの旅』1999年)。その医師プリーモ・レーヴィの追跡とナチスに迫害された上記画家を取り上げたテレビ番組をヒントに筆者も小文をしたためたことがある(「プリーモ・レーヴィへの旅」への旅)。かなり「ええかっこ」した小論であったが、その小文をしたためることによって、3人の画家のことやその3人をしつこく追いかけた徐さんの思いを少しでも知ることができた。
徐さんの美術エッセーの表題はディックスの言葉「肖像画家というものは、すぐに各々の顔に隠れた美点や欠点を読み出し、それを絵画に表現する偉大な人相学者であるといつも思われがちだ。それは文学的な考えだ。画家は「判断」せず「直視」する。私のモットーは「汝の目を信じよ!」である。」からとっている。ディックスの肖像画は対象の醜い面、いや、ディックスに言わせれば対象を「直視」した結果、を描いていて「美しく」はないのだろう。その美しくなさがナチスの逆鱗に触れた。美術はアーリア人の優位を示すとともに、ドイツの理想を描かなければならないとしたナチス思想と相反する美術作品は放逐されたのだ。
徐さんは、ナチスにより「退廃芸術」のレッテルを張られた美術作品を繰り返し、追いかける。その中に、ノルデ、キルヒナー、マルクらドイツ表現主義、ディックス、ベックマンらの新即物主義、そしてヌスバスムらユダヤ人美術が含まれている。2度の世界大戦に従軍したディックスは反ナチスであったわけではない。それどころかナチス党員でもあった。しかし、売春婦を好んで描き、戦争の悲惨な実相を描き続けたディックスを監視し、迫害し、時には逮捕した。海外亡命の道もあったが、ディックスはその道を選ばず、ドイツ国内にとどまり続け「風景への亡命」(徐さん)をしたのである。
戦後東ドイツからはドイツにとどまり続けながらナチスに抗した作品を描いた画家として、西ドイツからは抽象表現主義後の具象芸術を貫いた画家として、両ドイツから評価、賞賛されている。しかし、徐さんの言うようにディックスはそんな評価がほしかったのではもちろんなく、自分の見たままをそのまま、時に醜悪に見える様を描いたにすぎず、また、ディックス自身がそれを己の仕事と達観していたふしさえある。
本書は、ディックス以外に忘れ去られた画家、ヌスバウムを辿る章、虐殺とアートをめぐる記憶の仕方に言及した章、そして、ゴッホの画力に改めて驚かされる対談(画家矢野静明氏との対談)も収めていて必読である。
以前、ドレスデンを訪れたことがあるが、州立美術館の旧館(アルテ・マイスター)を訪れただけでディックスの「戦争祭壇画」がある新館には行くことができなかった。とても残念である。



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イギリス美術ぶらり3(2011年冬)

2011-01-28 | 美術

ロンドン・ナショナルギャラリ―は3度目である。今回はナショナルギャラリーとテート・ブリテン、テート・モダンをまとめて行った。実は、ナショナルギャラリーの良さは今更言うまでもなく、以前取り上げたことがあるので、しつこく述べはしないが、とにかく大きすぎず、小さすぎず、展示も分かりやすく回りやすい。ただ、今回もそうだが、近代=印象派のあたりは人混みがひどいのでゆっくり見る気もせず流しただけで、結局中世とルネサンス、バロックあたりだけきちんと見て、あとは足早に通り過ぎただけである。
ナショナルギャラリーは反時計周りがよい。入館するとすぐにまっすぐ左のセインズベリウイングまで突っ切ると中世の展示、初期ルネサンスから、後期ルネサンス、北方ルネサンスなどわくわくする作品であふれている。なかでも珠玉はダ・ヴィンチの「聖母子と聖アンナと洗礼者聖ヨハネ」、「岩窟の聖母」。「岩窟の聖母」はルーブル版を描き直したといういわく付きの作品。キリスト教絵画を描きながら、従前の決まり事に反旗を翻したダ・ヴィンチ。決まり事とは聖人は光輪が描かれ、それ以外の登場人物と見分けられるようにされていたのだが、ダ・ヴィンチは描かなかった。それを注文主に非難され、光輪を書き加えたが、書き直す前がルーブル版、書き直したのがナショナルギャラリー版であるというのは有名な話だが、ルネサンス以降、ダ・ヴィンチの描き方は主流になり、ラファエロの聖母に光輪などない。ダ・ヴィンチが無理やり書かされた光輪のないルーブル版の方が完成度の高いのは当たり前で、その違いを楽しむことのできるのはナショナルギャラリー版を見てのこと。
ダ・ヴィンチの作品以外にもヤン・ファン・エイクの「アルノルフィーニ夫妻の肖像」は秀逸。600年の時空を越えた美しさに魅了される。そしてホルバインの「大使たち」。メメントモリ(死を思え)の思想が蔓延した中で、裕福さに満ちた大使らを描きながら、中空に不気味なドクロを、それも、正面からは見えず、右斜め方向からしか見て取れないドクロを描いたホルバインの技量と終末期観に驚くとともに、そのまた異様でない様に感動さえ覚えるのだ。
おっと西ウイングまで来てしまった。ここでは後期ルネサンスの逸品から、クラナッハ、グレコなどイタリア豊満系とは違う作品も楽しめる。ここは後期ルネサンス17世紀以前。目玉はいくつもあるが、クラナッハ「ヴィーナスに訴えるキューピッド」、パルジャニーノ「聖母子と洗礼者聖ヨハネと聖ヒエロニムス」、ティツィアーノ「バッカスとアリアドネ」など。キリスト教世界一辺倒から古代ギリシア・ローマ世界への回帰、復興が目指されたとするルネサンスだが、絵画(彫刻)におけるキリスト教世界はもちろん健在で、それらが中世的神話世界からより人間的表現に重きが置かれたにすぎない。
北ウイングは1700年まで。カラヴァッジョの登場、バロックの花咲く世紀。プッサンの歴史大画、ルーベンスの迫力絵巻、レンブラントの登場によって肖像画が画壇の主流として確立される。宗教画と風俗画が混交し楽しめる時代は次世紀のロココ、19世紀のロマン主義、印象派へと連なっていくが、18世紀以降は東ウイングで先述のとおりゆっくりとは回らなかった。西洋絵画を時代に沿ってひととおり楽しめ、かつ、食傷しない展示量であるのがナショナルギャラリーの魅力であることは何度記述してもしすぎることはない。
ちょうど企画展はカナレットをしていたのだが、大勢の人でゆっくり見られる状況ではなかった。カナレットをはじめ風景画にはあまり興味を持てなかった筆者だが、これほどまでに集められるとすごい! 繊細なタッチに思わず見入るが、イギリス人は大きいのでよく見えない。人混みを避けつつ企画展はほどほどにした。
テート・ブリテンでターナーを見た後、体力・時間の続く限りとテート・モダンへ。ゴーギャンが特別展。日本でよく見られるゴッホとの出会い、別れに重きを置くのではなく、タヒチに渡るまでとタヒチ以後を丹念になぞっていて好感。美術館の規模や運搬料などいろいろな条件が影響しているとは思うが、日本の美術館での特別展は概して小さように思える。本気度が違うというか。いや、ゴーギャンならまだしもカナレット展は日本では流行らないのではないか。美術展示の仕方と、美術好き裾野と。考えさせられた今回のイギリス美術ぶらりでもあった。(マルセル・デュシャン「大ガラス」テート・モダン)
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