私たちの知らない世界では、私たちの知らない、想像を絶するタブーが存在する。FGM(female genital mutilation)。女性性器切除と訳される中には、さまざまな施術(と言えるかどうかも問題であるが)があり、女性性器の一部を傷つけて儀式を終えたとするものから、ワリス・ディリーのようにクリトリス、大陰唇、小陰唇すべてを切り取り、縫合する(といっても清潔な外科手術ではもちろんない)というパターンまであるという。
ファッション、モードの世界はとんと知らないのでワリス・ディリーの名も本作で知ったほど。けれど、FGMは国連でも女性に対する差別、虐待として取り上げられたのでもう随分前から知っていた。また、「母たちの村」で書いたように(http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/e57e43c79ef411bba94d108c807b57fa)、FGMははアフリカの古い宗教儀礼でも、イスラム教の教えでもない。けれど、FGMは西アフリカ、中央アフリカを中心に今なお続けられており、多くの国が法律で禁止したにもかかわらず年間300万人の女児に「施術」されているという。女性性器をすべて切り取るタイプのFGMの率が高いソマリア出身のワリス・ディリーにより、その実態が広く知られるようになった。本作はそのワリス・ディリーの成功譚である。
砂漠で生まれ育ったワリスは13歳のとき、羊と引き替えにかなり年上の同じ遊牧民の男の4番目の妻として結婚させられそうになる。自分がいなくなれば家事や羊の世話を一手に引き受けなけれなばらなくなる母親を思いながらも逃げ出したワリスは、叔母を頼り、そのつてでロンドンのソマリア大使館でメイドとして働くことになる。しかし、政変で急遽帰国しなければならなくなった大使一家についていかず、ロンドンに一人残ったワリスは実際路上生活も経験し、やがてマクドナルドで掃除の仕事を得、そこで一流のフォトグラファーに見いだされ、トップモデルの座に。しかし、恋に臆病であったワリスにはその理由があったのだ。「遊牧民出身の」との紹介ばかりされる女性誌に、いかに成功したかではなく、ワリスは自己の過去を語った。
世界の華、ファッションの頂点にたつ女性が自己の恐ろしい体験を語ったことに衝撃が走ったのは当然である。それまでフェミニズムの世界やアフリカの研究者など一部の者しか知らなかった、あるいは語られてこなかった事実が世界中の人たちが知ることになったのだから。しかしその「世界中」にはスーダンをはじめFGMが現に行われている地域の人にはそれが差別や虐待であると表現する方法を持たない人たちは入っていない。いや、日本でもその他世界でも聞こえない人、聞きたくない人、聞く気のない人には届かない。おそらくはワリスも知って欲しいと、FGMの事実を広めるためには普段から社会問題を扱う雑誌や新聞でなく、自分たちモデルが取り上げられ、ふだん社会問題に関心のない人たちが読む雑誌をわざと選んだのではないか。
FGMを女性差別とは考えずに守るべき伝統や風習として支える力もまた強い。ワリスが下腹部の痛みに耐えかねてロンドンの病院に行くが、診察をした白人男性医師がFGMのためにそのような症例になっていること、手術が必要と言うのに、それを通訳したアフリカ系の看護士が「白人の男に足を拡げたな。恥を知れ。一族の恥だ。手術はしないと言え」と通訳しているふりをして脅かすシーンがある。それで一度は手術をあきらめたワリス。これは極端な例であるが、「伝統」や「風習」ならば守るべき、反対すべきでないと考える向きは一般的である。例えば、土俵に女性は上がれないとする相撲の世界や、女人禁制の山など。「伝統」であるから守らなければならないのではなくて、「風習」だから侵してはならないのではない。それが差別であるならば守るべき伝統や風習ではない。
ワリスの訴えは世界の意識を変えつつあるが、アフリカの地域ではまだ届いていない。それは後進性というものではなくて、人の命や体は本人の意思に反して理由なく、傷つけてはならないという普遍的な価値概念なのだ。まだ、何百万のワリスがいる限り、FGMの事実は広め続けなければならない。
ファッション、モードの世界はとんと知らないのでワリス・ディリーの名も本作で知ったほど。けれど、FGMは国連でも女性に対する差別、虐待として取り上げられたのでもう随分前から知っていた。また、「母たちの村」で書いたように(http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/e57e43c79ef411bba94d108c807b57fa)、FGMははアフリカの古い宗教儀礼でも、イスラム教の教えでもない。けれど、FGMは西アフリカ、中央アフリカを中心に今なお続けられており、多くの国が法律で禁止したにもかかわらず年間300万人の女児に「施術」されているという。女性性器をすべて切り取るタイプのFGMの率が高いソマリア出身のワリス・ディリーにより、その実態が広く知られるようになった。本作はそのワリス・ディリーの成功譚である。
砂漠で生まれ育ったワリスは13歳のとき、羊と引き替えにかなり年上の同じ遊牧民の男の4番目の妻として結婚させられそうになる。自分がいなくなれば家事や羊の世話を一手に引き受けなけれなばらなくなる母親を思いながらも逃げ出したワリスは、叔母を頼り、そのつてでロンドンのソマリア大使館でメイドとして働くことになる。しかし、政変で急遽帰国しなければならなくなった大使一家についていかず、ロンドンに一人残ったワリスは実際路上生活も経験し、やがてマクドナルドで掃除の仕事を得、そこで一流のフォトグラファーに見いだされ、トップモデルの座に。しかし、恋に臆病であったワリスにはその理由があったのだ。「遊牧民出身の」との紹介ばかりされる女性誌に、いかに成功したかではなく、ワリスは自己の過去を語った。
世界の華、ファッションの頂点にたつ女性が自己の恐ろしい体験を語ったことに衝撃が走ったのは当然である。それまでフェミニズムの世界やアフリカの研究者など一部の者しか知らなかった、あるいは語られてこなかった事実が世界中の人たちが知ることになったのだから。しかしその「世界中」にはスーダンをはじめFGMが現に行われている地域の人にはそれが差別や虐待であると表現する方法を持たない人たちは入っていない。いや、日本でもその他世界でも聞こえない人、聞きたくない人、聞く気のない人には届かない。おそらくはワリスも知って欲しいと、FGMの事実を広めるためには普段から社会問題を扱う雑誌や新聞でなく、自分たちモデルが取り上げられ、ふだん社会問題に関心のない人たちが読む雑誌をわざと選んだのではないか。
FGMを女性差別とは考えずに守るべき伝統や風習として支える力もまた強い。ワリスが下腹部の痛みに耐えかねてロンドンの病院に行くが、診察をした白人男性医師がFGMのためにそのような症例になっていること、手術が必要と言うのに、それを通訳したアフリカ系の看護士が「白人の男に足を拡げたな。恥を知れ。一族の恥だ。手術はしないと言え」と通訳しているふりをして脅かすシーンがある。それで一度は手術をあきらめたワリス。これは極端な例であるが、「伝統」や「風習」ならば守るべき、反対すべきでないと考える向きは一般的である。例えば、土俵に女性は上がれないとする相撲の世界や、女人禁制の山など。「伝統」であるから守らなければならないのではなくて、「風習」だから侵してはならないのではない。それが差別であるならば守るべき伝統や風習ではない。
ワリスの訴えは世界の意識を変えつつあるが、アフリカの地域ではまだ届いていない。それは後進性というものではなくて、人の命や体は本人の意思に反して理由なく、傷つけてはならないという普遍的な価値概念なのだ。まだ、何百万のワリスがいる限り、FGMの事実は広め続けなければならない。