kenroのミニコミ

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常設展の豊穣     伊藤財団寄贈作品と「具体」展(兵庫県立美術館)

2011-04-05 | 美術
日本の美術館にはルーヴルやメトロポリタンのような巨大な規模のところがない分、多くの場合常設展より企画展に力を入れ、また、それで集客している。国内で数館しかない国立の美術館のうち、上野の国立西洋美術館でさえも常設展はそれほどの規模ではない。
しかし、多くの美術館はそれなりに自慢の収蔵作品を持ち、国立新美術館のようなところを除いて、収蔵作品を展示する自前の常設展に自信を持っている。関西でいえば、伊丹市立美術館は、ドーミエの版画を多く有しているし、姫路市立美術館はベルギーの近代絵画、滋賀県立美術館は小倉遊亀といったそれぞれ特徴のあるラインナップである。
兵庫県立美術館は、常設展示室としては神戸の画家、小磯良平と金山平三の常設室を有しているが、それ以外にも西洋、日本の近代絵画を中心によい作品を多く持っていて、阪神・淡路大震災後に開館したこともあり、常設スペースも広い。
今回、入れ替えた常設展は「伊藤文化財団設立30周年 寄贈作品の精華」展。伊藤財団とは伊藤ハム株式会社が設立した文化寄贈財団であり、創業社長の伊藤傳三が兵庫県立近代美術館(兵庫県立美術館の前身。阪神・淡路大震災で破損した同館が手狭なこともあり、現在の美術館が2004年に開館したもの)に寄贈した作品を回顧するもの。小出楢重や安井曾太郎のスケッチや水彩画などの後の巨匠の足跡を知るすばらしいコレクションも魅力であるが、伊藤傳三の蒐集は現代美術、つとにアプレゲール、すなわち戦後美術にも造詣が深く熱心に集めたことに関心が向く。
日本の戦後美術は戦争に対する姿勢や距離、評価からはじまった。猪熊弦一郎や藤田嗣治に対する画家の戦争責任追及は有名であるが、それより後、1954年に結成された「具体美術協会」の精華ならぬ成果は現在とても新しい。
本展に展示されているのは「具体」の創設者、吉原治良をはじめ物故者の白髪一雄、田中敦子、そして存命の元永定正などであるが、吉原の「人の真似をするな」は「具体」の面々の作品群に十分現れているし、真似をしないまま50年後も古びかない作品群として息づいている。
白髪の足を使った描画法、田中の電気服、元永の単純かつ大胆なドローイングなど、現在でも度肝向かれる発想は、50年代から60年代のその頃は、最初、奇天烈加減を競ったほんの一部の好事家にしか受けなかった「キワモノ」であるまいか。それらを熱心に集めた伊藤傳三も先見の明があったというよりほとんどゲテモノ好きにすぎない。しかし、近年「具体」再評価を見ても分かるように、アプレゲールさは平和をこれからつくる「戦後」を実感するものとして出現する必然性があったし、高度経済成長を迎える上げ潮の日本社会を象徴するものとしてあったに違いない。
バブルに浮かれた1980年代後半、ゴッホのひまわりを当時の最高額で落札しただの、メセナの名もとに今から思えば「薄っぺらな」「当時の」現代アートに多額の、いや、身の程以上の高値をつけ、もてはやした虚妄が、50年後の「具体」再評価によって忘れ去られている実感を伊藤傳三の目利きによって簡単に覆されるとすれば、それはそれで悲しいものがある。しょせん、バブルでなく持つ者がその矜持を体現したものとして。
けれど、伊藤財団の太っ腹に感心している場合ではない。阪神・淡路大震災を経験した神戸人が兵庫県立美術館の提供するアートの役割を自覚するように、東北・関東大震災を経験した人々もまたアートを欲する時期を想像できるように、寄贈する人も、美術館も、そしてまた訪れる私たちも、現代とアートは無縁ではないと再確認するべきなのであろう。
「具体」の遺した問題提起は、脱構築ともいえるが、実は、できるところから始めよう、というアーティストと市井の人とをつなぐ処方箋を「バブル」でもなく、美術は難しいものという一般概念に疑問符をつけてくれたことではないか。
美術は今すぐに見ている人を豊かにす力も、現時点で美術を楽しむ余裕ない人も豊かにする力はないが、明日を語る、明日を描く人にとっては希望の一断面足りえるのではないか、でないと寄贈も鑑賞もあり得ない。
(元永定正「ポンポンポン」)
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