おかしな言い方だが、ユーゴスラビア映画は、映画のできそのものよりも題材でもう勝ちである。いや、本作もできが悪い、というわけではない。ユーゴ映画、それも日本の商業ベースで公開されるような作品は、質もいいとうことではある。しかし、ユーゴスラビア崩壊、内戦時、その後を描いた作品は、題材それだけで重く、引き込まれるのである。そして言うまでもなくこれまでの作品はどれも秀作ぞろいで、忘れ難い。パーフェークト・サークル、ノーマンズランド、ライフ・イズ・ミラクル…。
ただこれまでの作品は、内戦そのものやその後遺症、トラウマなどを扱っている作品が多かったが、「サラエボの花」でそのトラウマと向き合う母を描いたヤスミラ・ジュバニッチ監督が今回挑んだのは「戦後」のユーゴスラビアそのものである。
フライト・アテンダントのルナは恋人のアマルと暮らし、妊娠を望んでいる。航空管制官のアマルは内戦時の兵士体験でアルコール依存症。執務中の飲酒がばれ停職に。たまたま再会した戦友バフリヤに誘われ、イスラム原理主義のコミュニティへ。酒もたばこもやめ、ルナの服装にも意見をしだしたアマルに不安を感じるルナ。実はボスニア人である二人はもともとムスリム(イスラム教徒)。しかし、酒もたばこもセックスも謳歌する、イスラム原理主義とはかけ離れた西洋的なライフスタイルであったのだ。ラマダンあけを祝うルナの親戚の宴席で、今や信心が足りないから戦争が起こったのだと説教するアマル。以前は一番酒を飲み、醜態を晒していたのに。そしてルナもまたボスニア紛争でセルビア人に両親を殺され、家を失った経験があるのに。
アマルの変化に二人の子どもを持つこと不安を感じたルナは人工授精をやめてしまう。けれど思いがけず妊娠し、今やアマルとはともに生きていけないと悟ったルナは。
重く、きつい題材である。しかし、ルナが最終的に出した答えは自立である。ジュバニッチ監督はイスラムに対する批判ではないと述べているが、少なくとも宗教が原理主義的であればあるほど、女性の自立を妨げる方向に行くことは多く、イスラムではそれがフィーチャーされる。ルナは結局、アマルと別れ、一人子どもを産む覚悟のようだが、映画では結末まで詳しく描かれてはいない。けれど、ルナのこの回答は誰しも応援したくなるだろう。共産党によって異なった宗教の民族が共存していた時代、それは言わば「上からの民主化」であった。少なくとも、建前としての平等や、官僚主義が席巻する中、個の自由が抑圧されていると感じていた層はそうであろう。しかし、見せかけの平等を推進していた共産党が崩壊し、いったん、民族間の乖離・分断そして内戦を経験した個々の市民にとって次なる民主化は「下からの」のあるべきであった。それは、イスラムに限らずどの信仰であっても、女性や子どもは女性である、子どもである以前に個として尊重されるといった民主主義を語る際の普遍的な価値観であった。
本作の原題は「On the Path(途上=英語版)」。ボスニア紛争から15年。今や日常の戦火はなくなったが、セルビア人が脱出し、ムスリムが圧倒的となったサラエボに生きる人にとって「途上」は、ムスリムが多数派になったからといって安寧な土地になったということではない。いい加減なムスリムであるルナの生き方こそ、「途上」を「希望」に変える小さな営みの一つである。「共存」とはただ一種類の形ではない。アマルを失ったルナにはたった一人の恋人を失った悲しみではない、サラエボに生きる人の未来をも共存させるために前を行くのだ。そして、クロアチア紛争以降、多くの犠牲を生んだユーゴの地に、宗教の力を借りず自己の決断として生を大事にするルナを応援しない者はいないだろう。私もそうだ。
ただこれまでの作品は、内戦そのものやその後遺症、トラウマなどを扱っている作品が多かったが、「サラエボの花」でそのトラウマと向き合う母を描いたヤスミラ・ジュバニッチ監督が今回挑んだのは「戦後」のユーゴスラビアそのものである。
フライト・アテンダントのルナは恋人のアマルと暮らし、妊娠を望んでいる。航空管制官のアマルは内戦時の兵士体験でアルコール依存症。執務中の飲酒がばれ停職に。たまたま再会した戦友バフリヤに誘われ、イスラム原理主義のコミュニティへ。酒もたばこもやめ、ルナの服装にも意見をしだしたアマルに不安を感じるルナ。実はボスニア人である二人はもともとムスリム(イスラム教徒)。しかし、酒もたばこもセックスも謳歌する、イスラム原理主義とはかけ離れた西洋的なライフスタイルであったのだ。ラマダンあけを祝うルナの親戚の宴席で、今や信心が足りないから戦争が起こったのだと説教するアマル。以前は一番酒を飲み、醜態を晒していたのに。そしてルナもまたボスニア紛争でセルビア人に両親を殺され、家を失った経験があるのに。
アマルの変化に二人の子どもを持つこと不安を感じたルナは人工授精をやめてしまう。けれど思いがけず妊娠し、今やアマルとはともに生きていけないと悟ったルナは。
重く、きつい題材である。しかし、ルナが最終的に出した答えは自立である。ジュバニッチ監督はイスラムに対する批判ではないと述べているが、少なくとも宗教が原理主義的であればあるほど、女性の自立を妨げる方向に行くことは多く、イスラムではそれがフィーチャーされる。ルナは結局、アマルと別れ、一人子どもを産む覚悟のようだが、映画では結末まで詳しく描かれてはいない。けれど、ルナのこの回答は誰しも応援したくなるだろう。共産党によって異なった宗教の民族が共存していた時代、それは言わば「上からの民主化」であった。少なくとも、建前としての平等や、官僚主義が席巻する中、個の自由が抑圧されていると感じていた層はそうであろう。しかし、見せかけの平等を推進していた共産党が崩壊し、いったん、民族間の乖離・分断そして内戦を経験した個々の市民にとって次なる民主化は「下からの」のあるべきであった。それは、イスラムに限らずどの信仰であっても、女性や子どもは女性である、子どもである以前に個として尊重されるといった民主主義を語る際の普遍的な価値観であった。
本作の原題は「On the Path(途上=英語版)」。ボスニア紛争から15年。今や日常の戦火はなくなったが、セルビア人が脱出し、ムスリムが圧倒的となったサラエボに生きる人にとって「途上」は、ムスリムが多数派になったからといって安寧な土地になったということではない。いい加減なムスリムであるルナの生き方こそ、「途上」を「希望」に変える小さな営みの一つである。「共存」とはただ一種類の形ではない。アマルを失ったルナにはたった一人の恋人を失った悲しみではない、サラエボに生きる人の未来をも共存させるために前を行くのだ。そして、クロアチア紛争以降、多くの犠牲を生んだユーゴの地に、宗教の力を借りず自己の決断として生を大事にするルナを応援しない者はいないだろう。私もそうだ。