福田緑さんは私のリーメンシュナイダー巡礼(というほど行ってはいない。単なる作品見学。)の師匠である。その福田さんがご自身が撮り溜め、写真集を3冊も出版された上、この度リーメンシュナイダー写真個展を開催された。
いい意味で「病膏肓に入」った福田さんのリーメンシュナイダー探求は半端ではない。収蔵する美術館・博物館や小さな教会に連絡をとり、見せて欲しい、写真を撮らせて欲しいと希う。もちろんすぐいい返事をくれるところは少ない。何回もコンタクトを取り、訪れ、懇請する。その熱意が伝わり、今では館長や学芸員、教会関係者など懇意になった人も数知れない。福田さんはリーメンシュナイダーを追いかけようと決めると単身で6か月に及ぶドイツ語留学で言葉を体得した。執念である。14回にも及ぶ渡独は、地方の小さな教会を訪れることもある。時間があてにならない列車に乗り、1日数本もないバスを乗り継ぎたどり着く。でも帰りのバスがもう来る。綱渡りのような旅程を支えるのは、福田さんがこの間紡いだドイツの友人ネットワークである。1か月以上に及ぶドイツ旅行にすべてホテルを使用するわけにもいかない。友人宅を泊り、時に送迎もしてもらう。福田さんが築き上げた信頼関係ゆえの交歓の結果である。ドイツ人は総じて親切だと聞くが、そこまでの関係を作るには絶え間ないアクセスとフォロー、そして感謝しているとの誠意が大切である。福田さんのひたむきさには頭が下がる。
リーメンシュナイダーは個展オープニングでお話しくださった永田浩三さん(武蔵大学教授、あいちトリエンナーレ「表現の不自由・その後」展実行委員)によれば、小田実は「「市民」がつくった彫刻(家)」と評していると紹介した。ルターによる「宗教改革」が吹き荒れた時代、ドイツ農民戦争に巻き込まれたリーメンシュナイダーは市長を務めていたこともあり、捕らえられ、彫刻をするには致命的である手をひどく傷つけられたとの話もある。リーメンシュナイダーがあれほど峻厳な像をつくることができたのはなぜか。それは彼の信仰ゆえだという。造形作家として彫っていたのではなく、信仰の証として彫っていたのだと。
それは分かるような気もするから不思議だ。福田さんにはおよそ及ばないが、筆者も福田さんの指南を得て、リーメンシュナイダーが多く展示されているフランケン博物館(ヴュルツブルク)とか、バイエルン国立博物館(ミュンヘン)であるとか訪れたのだが、その他の美術館でもリーメンシュナイダーの作品は近づくまでに遠くから判別できるのだ。あっ、リーメンシュナイダーだと。福田さんの仰るように本人だけか工房作かまではもちろん判別は難しいが、リーメンシュナイダー自身の作は感じるところがある。あの厳しいキリストの表情はリーメンシュナイダーでしか彫りえないと。
永田さんは、リーメンシュナイダーの彫像は「手」が素晴らしいと話された。確かに手は彫刻家のある意味目指すべき頂(いただき)で、ロダンの「痙攣した手」など拘った作品も数しれない。しかし永田さんの仰った「手」の表現は、むしろ彫刻家(に限らないが)の命である作品をつくる所作の本源としての「手」に対する崇高な思いの証ではないのか、と思える。
永田さんはリーメンシュナイダーは中世の彫刻家と紹介されるが、むしろルネサンスで顕現された人間性の発露、ではと問題提起された。そういう意味合いもあるであろうが、筆者はリーメンシュナイダーが「中世最後の彫刻家」(高柳誠 1999年)と評されるのは、その峻厳さゆえにゴシックの表象(教会が巨大建築=ゴシックの大聖堂、を建てるためにルターが批判した贖宥状を発行しまくった、というのはさておき)を見たからでないかと思える。大金と技術の粋を総動員したゴシックの大聖堂が不思議と静謐で謹厳な感じがする。
リーメンシュナイダーの塑像に見(まみ)える時、見ているこちら側に、どう見(まみ)えているのかと、問われる気がする。それほどまでに信仰を「超越」したリーメンシュナイダーの塑像群に、福田さんの個展で多くの人に触れて欲しいと思う。(「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く」 ギャラリー古藤(http://furuto.art.coocan.jp)で12月7日まで。11月30日と12月6日にはギャラリートークもある。ぜひ)