kenroのミニコミ

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藤田嗣治の戦争協力の実相と戦争画の隠蔽  『画家たちの戦争責任』

2019-11-25 | 書籍

 著者の北村小夜さんご自身から貴重な書籍を寄贈いただいた。1925年生まれ、元教員の北村さんの『画家たちの戦争責任 藤田嗣治の「アッツ島玉砕」をとおして考える』(2019年 梨の木舎)は藤田らが描いた戦争協力・戦意鼓舞の戦争画が戦後GHQ(アメリカ)に接収され、1970年に「永久貸与」という形で日本に返還された153点が東京国立近代美術館に収蔵されたが、公開されない事実と藤田らの従軍画家の戦争責任追及に挑む。

北村さんは、藤田の画業を「そういう仕事を引き受ける他に戦争中絵を描いて暮らすことはできなかったにちがいない。その画面には戦争賛美も、軍人の英雄化も、戦意昂揚の気配さえもない。」と記す加藤周一に反論する。「私を戦争に駆り立てたものに戦争画、中でも藤田の絵は強力であった。」「彼(藤田)は自らの意志で戦争画家の道を選び、その地位を最大限に活用し、美術界にも大きな影響を及ぼした。」

ところで、アジア・太平洋戦争期に陸・海軍省の委嘱で制作された公式の戦争絵画を作戦記録画という。その数およそ220点。そのほとんどが洋画で日本画は2割に過ぎない。そして従軍画家は圧倒的に洋画家である。藤田の16点を筆頭に中村研一10点、宮本三郎(7)、向井潤吉(5)、小磯良平(5)などと続く。作戦記録画に主体的に関わったかどうかは別にして、戦争協力画家として戦後批判された画家には猪熊弦一郎や戦後間もなく死去した清水登之らもいる。猪熊は戦時中の自己の画業についてほとんど語らなかったとされるし、小磯も自己の戦争画公開には積極的ではなかったとされる。

藤田や猪熊、小磯を同列に述べることは難しいが、自己の戦争協力追及に逃げ出したのが1954年にフランス国籍を取得し二度と日本に帰らなかった藤田である。それほど藤田の技倆が優れていた証拠で、「聖戦美術展」では藤田の「アッツ島玉砕」には手を合わせる観客もいたという。並外れたデッサン力の持ち主である小磯といい、戦争画を描く者は写実的な油彩画を描く画家ばかりが選ばれたということでもあるし、西洋画を描く者こそ天皇を抱く世界に冠たる大日本帝国の軍門に下ったと見せつける意図もあったであろう。そして北村さんのように戦争画を前にして皇軍の必勝を誓った軍国少女も多かったに違いない。

北村さんは軍国少女として邁進した自己の反省をもとに、戦後長く障害児教育の現場にて働き、教育の戦争責任を追及してきた。北村さんの名言「戦争は教室から始まる」が思い起こされる。

藤田の画業は一般的な関心からは戦争画よりエコール・ド・パリで活躍した時代の乳白色の裸婦像が有名であろう。しかし藤田の画才が一番発揮されたのは戦争画であるとの見方もある。そして「アッツ島玉砕」が戦意昂揚にしてはテーマも雰囲気も暗すぎる、勇壮感が全く感じられない反戦画との見方さえある。しかし、作品は必ずしも画家の意図通りに見られるとは限らない。あの時代に「玉砕」という皇軍兵士としての最高の名誉を描いた作品の前で天皇のために死を誓うという現代から見れば倒錯的と思える意志を固くした人も多かったのだ。絵は時代状況と見る人によって、その意味付けがされるという事実も忘れてはならないし、であるからこそ、藤田の役割は重かったのである。

戦場などに従軍した日本画家は少なく、直接の戦意高揚と見えないからと、いや、富士山ばかり描くなどその画業が天皇と密接に結びついていたからこそ、戦後戦争責任追及から逃げおおせた横山大観などの存在もある。北村さんは東京国立近代美術館が収蔵する戦争画のすべての公開を訴える。一兵士として従軍し、その侵略性、悲惨さを実感しているからこそ戦後違った視点での戦争画に拘った香月泰男や浜田知明らもいる。画家の戦争責任追及に終わりはない。

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