講演などをテープ起こしするにはカセットテープが一番で、ICレコーダーは使いにくいと思っていたら、文字変換ソフトがかなり進化していて、今では正答率が90数%までいくとか。そもそもカセットテープは百均くらいにしか売っていないし、レコーダーはどこに売っているのだろう?
「こころの通訳者たち」は、舞台手話通訳者(通常の手話通訳と違い、通訳者も出演者として、役者と同じ衣装を舞台に立つ)が聴こえない人のためにどう演劇を楽しんでもらうか、その演出、表現等工夫して作り上げた舞台映像(「ようこそ舞台手話通訳の世界へ」)を、今度は、流される文字の台詞をラベリング(台詞を音声に変換)して、見えない人に舞台を楽しんでもらおうとする取り組みを描いたドキュメンタリーである。こんがらがりそうだが、要するに①聴こえる、見える人を対象にした舞台 → ②台詞を舞台袖に流し、聴こえない人に対応 → ③その台詞を、見えない人に理解しやすいよう言い換えて音声として加える。という途方もなく時間と労力のかかる作業の成功譚だ。
これは、通常「健常者」だけを観客として想定している舞台に聴こえない人に対する壁を越え、さらに見えない人に対する壁も壊す、拡げるコミュニケーションの「越境」挑戦なのだ。しかし、「越境」が現代には必要不可欠であることは言を俟たないであろう。
グローバリズムというとき、すぐに日本人の英語力(最近では中国語力か)などをと想起されるが、コミュニケーションの手段は語学だけではない。そもそも手話(見えない人に対する触手話なども含む)は言語であるし、独立した伝達方法である。この言語によって見えない人や聴こえない人との会話が成立するなら、見える人、聴こえる人の世界も広がるのは明らかである。だから、私たちが外国語を学ぶ時に、もちろん海外赴任でイヤイヤというのもあるだろうが、その言語を話す人の背景に思いをいたし、想像力を掻き立てられることが理由となるのには、見える、聴こえるにとどまらない。
人は言葉が通じず、すぐにの伝達が困難な時、一所懸命伝えよう、理解しようと工夫、努力する。そうしている間は、人間関係に紛争は生じない。その努力に時間を割いている間は戦争も起こらない、というのは楽観すぎるだろうか。しかし、歴史を見れば、他者を差別、迫害する際には、その他者を「何を言っているか分からない蛮人」と見做してきたのではないか。そして、仮に同じ民族内であっても、見えない、聴こえない人は情報弱者として差別、迫害してきたのではないか。
ちょうど『くらしと教育をつなぐ We』241号(2022/12/1)では、日本で唯一「日本手話」を使って幼・小・中学部の一貫教育(バイリンガルろう教育)を行なっている東京・品川区の「名晴学園」のことが取り上げられている(http://www.femix.co.jp/latest/index.html)。幼い頃から二つもの言語を手に入れた(しかも、「日本手話」はアクティブ!)子どもらの生き生きとした様子が素敵だ。
「こころの通訳者たち」のサブタイトルはWhat a Wonderful World。原曲はサッチモことルイ・アームストロング。戦前から(敵性語)英語で外の世界とつながろうとした人たちを描いた「カムカムエブリバディ」の主人公雉真るい(深津絵里)の愛称は「サッチモ」であった。
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