女優の木村多江さんという人を実はよく知らない。が、木村さんが本作で「翔子は自分だ」と語ったことは分かるような気がする。というのは、木村さんはBSだったか、「千の風になって」のオリジンを訪ねる旅人として出演されていて、身近な人の死を思うかの歌、メロディの出自を探り当てる道程で自己も癒されていくドキュメンタリーを見ていたからだ。木村さんはご自身が女優という職業に飛び込んだ時、父親に納得してもらえなかったという悔恨の情があったのにその父親が若くして亡くなり、父の死は自分のせいではといったトラウマを抱えていたから、「千の風になって」探しのファシリテイターになったのだと。
女優さん(男優も含めて)の泣きじゃくりシーンというのは大変だと思う。美しい人が(少なくとも木村さんはきれいな人系であるのだろう)あんなに汚く、鼻水まで垂らしているのだから。
子どもを喪い、次第にバランスを壊していく翔子はある意味で真摯であったから、であるし、また、真摯でない翔子の兄やその妻、法廷画家としてどんな時も自己を流されず客観性だけが要請される夫のカナオも真摯でなかったから翔子のようにバランスを喪わなかったというふうに描かれている。そして、きついところを生きる翔子を愛し続けるカナオを夫婦愛の具現者として描いているように見えるがそうだろうか。
壊れても「好きだ」というカナオに嘘はない。けれど、そのような愛だけが要求される「夫婦愛」とはあまりにも狭すぎないか。作品では翔子の兄夫婦が翔子夫妻の知性と正反対に描かれている。バブル期は羽振りがよかったが、その後は没落し、嫌な面だけ十分に出ている知性とは反対側の人たちとして。たしかにそのような人はいるであろうし、そちらの方が翔子とカナオより現実的に見える。価値判断を求めているわけではないだろうが、橋口監督は明らかに翔子とナカオ夫妻に観る者の支持を煽っているように思える。でも、あんな夫婦はいない。
職業選択に不器用で自己表現で激しさのないナカオはただ、翔子を愛することで自己存在理由を叶えているようにも見える。法廷画家というかなりエキセントリックな仕事を生きるカナオこそ翔子を愛し続けるに価値ある男と描きたかったのかもしれないが、そもそも法廷の描き方が間違っている。
90年代を騒がしたさまざまな事件では法廷で描かれているような理解不能な被告人の姿、被害者にはとうてい絶えられない被告人の言動もあったやもしれぬ。が、刑事事件とは法廷で話された内容だけではない。そこに至る被告人の表現、変質、社会的な背景など多くの要素が絡み合っているものなのだ。センセーショナルな法廷だけで90年代の種々の事件も、個々の事件も語ることもできないし、そのようなことを語ることを否定する法廷画家の存否自体も問われていない。
いみじくもカナオに記者が「虐待された子どもを描け」だの「もっと悪人面に描け」など要求し、その理由を「視聴者が観たがっているから」と言い放つシーンがあるが、本作はその欺瞞性や犯罪性について翔子を愛する優しいカナオを描くあまり捨象している。むしろ翔子がそのような危機に落ちいった原因はカナオには全くないように描いているのだ。しかし、そもそも個々の事件の客観性に拘泥するあまり、妻の危機に気づかない、あるいは応えられない夫の優しさとはなんなのか。を問うている本作と観るならば、捨てがたい秀作である。本作の題が周囲をあらわす「ぐるり」となっているのは、先述のような視点ではなく家族はいいものだけでど身内はかなわないといったある一面を丹念に描いた映画ならばそれも納得できるというものである。
女優さん(男優も含めて)の泣きじゃくりシーンというのは大変だと思う。美しい人が(少なくとも木村さんはきれいな人系であるのだろう)あんなに汚く、鼻水まで垂らしているのだから。
子どもを喪い、次第にバランスを壊していく翔子はある意味で真摯であったから、であるし、また、真摯でない翔子の兄やその妻、法廷画家としてどんな時も自己を流されず客観性だけが要請される夫のカナオも真摯でなかったから翔子のようにバランスを喪わなかったというふうに描かれている。そして、きついところを生きる翔子を愛し続けるカナオを夫婦愛の具現者として描いているように見えるがそうだろうか。
壊れても「好きだ」というカナオに嘘はない。けれど、そのような愛だけが要求される「夫婦愛」とはあまりにも狭すぎないか。作品では翔子の兄夫婦が翔子夫妻の知性と正反対に描かれている。バブル期は羽振りがよかったが、その後は没落し、嫌な面だけ十分に出ている知性とは反対側の人たちとして。たしかにそのような人はいるであろうし、そちらの方が翔子とカナオより現実的に見える。価値判断を求めているわけではないだろうが、橋口監督は明らかに翔子とナカオ夫妻に観る者の支持を煽っているように思える。でも、あんな夫婦はいない。
職業選択に不器用で自己表現で激しさのないナカオはただ、翔子を愛することで自己存在理由を叶えているようにも見える。法廷画家というかなりエキセントリックな仕事を生きるカナオこそ翔子を愛し続けるに価値ある男と描きたかったのかもしれないが、そもそも法廷の描き方が間違っている。
90年代を騒がしたさまざまな事件では法廷で描かれているような理解不能な被告人の姿、被害者にはとうてい絶えられない被告人の言動もあったやもしれぬ。が、刑事事件とは法廷で話された内容だけではない。そこに至る被告人の表現、変質、社会的な背景など多くの要素が絡み合っているものなのだ。センセーショナルな法廷だけで90年代の種々の事件も、個々の事件も語ることもできないし、そのようなことを語ることを否定する法廷画家の存否自体も問われていない。
いみじくもカナオに記者が「虐待された子どもを描け」だの「もっと悪人面に描け」など要求し、その理由を「視聴者が観たがっているから」と言い放つシーンがあるが、本作はその欺瞞性や犯罪性について翔子を愛する優しいカナオを描くあまり捨象している。むしろ翔子がそのような危機に落ちいった原因はカナオには全くないように描いているのだ。しかし、そもそも個々の事件の客観性に拘泥するあまり、妻の危機に気づかない、あるいは応えられない夫の優しさとはなんなのか。を問うている本作と観るならば、捨てがたい秀作である。本作の題が周囲をあらわす「ぐるり」となっているのは、先述のような視点ではなく家族はいいものだけでど身内はかなわないといったある一面を丹念に描いた映画ならばそれも納得できるというものである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます