美術品の価格というのは一体どのようにして、どういう理由で決まるものなのだろうか。バブルの時代、安田火災(現・損保ジャパン)がゴッホの「ひまわり」を当時のレートで史上最高額の53億円で競り落とした時は、日本の金満ぶりとともに、美術品はある意味天井なしの価格をつけていいのだと知らしめる機会になったことだろう。その53億円がかすむ価格がついたのが、レオナルド・ダ・ヴィンチ作とされる「サルバトール・ムンディ(世界の救世主)」、510億円である。そのカラクリが本作によって明かされる。
ニューヨークの美術商が無名の競売会社のカタログから見つけたレオナルドの「失われた絵」を見つけ、買い取った額は1175ドル(約13万円)。それがロシアの富豪などを経るうちにサウジアラビアの王子が入手した時には件の価格にまで跳ね上がっていたのだ。しかし、その間「真作」としてロンドン・ナショナル・ギャラリーでの展示。ルーヴル美術館でのダ・ヴィンチ展では、サウジが「モナ・リザ」の隣に「真作」として展示するよう要求したが、ルーブルの鑑定では「科学的な知見ではダ・ヴィンチは“貢献した”だけ」との見解で、結局展示しなかった。ならば、サウジとフランスの関係が悪くなったかといえばそうではなく、文化大国としての偉業を将来見せつけたいサウジに、フランスが大きく援助することで関係は保たれた。世界的に脱炭素の高い目標が掲げられる2030年に産油大国のサウジが巨大プロジェクトを完遂させるために、フランスに貸を作りたかったからとも憶測されている。では、結局ルーブルに貸し出されなかった絵はどこに行ってしまったのか。UAEに建設されたルーヴル・アブダビに常設展示されるとの報道もあったが、結局されずに再び所在不明となっている。そこまでの経緯がスリリングで、美術商や蒐集家のみならず、国家の思惑まで描きこんだドキュメンタリーが秀逸だ。
そもそも美術品の値段はあってないようなものだ。美術市場が富裕層の地位の誇示やマネーロンダリングなどの場となり、そういった実態が作家の思惑からかけ離れていく様をアンチテーゼとして示したかったバンクシーの作品が、オークション会場で落札と同時に切り刻まれたことにより、その価額より何倍も跳ね上がったのは皮肉な出来事だった。街に落書きし(グラフィティ)、金銭的評価とは無縁、むしろそういった美術作品が扱われる現状を否定していたバンクシーもその価値観からは逃れられないということであろうか。もっとも、これこそがバンクシーの戦略という見方もあり、「サルバトール・ムンディ」をめぐる狂騒とは違ったところで、どの美術作品も市場と無関係なところでは存在し得ない。
値段があってないようなのが美術作品と書いたが、「モナ・リザ」や他にもそもそも値段がつけられない美術作品というのは多数ある。ミケランジェロやベルニーニの彫刻、ファン・アイクの宗教画など、現在となっては流通することがあり得ない作品群だ。そういう意味では流通こそが価値を左右するが、それはあくまで現在の貨幣としての価値である。だから流通を盛んにすることによってその価値をどんどん上げていくことは、その「名作」を見たい者にとっては見られるかどうか分からないという意味で迷惑であり、作品にとっても不幸なことではないのか。
「モナ・リザ」(現在の表記は「ル・ジョコンダ」)も随分昔に日本に来たことがあったが、ルーヴルはもう外部に貸し出しはしないという。「真作」「実作」を見たければ、その場所まで行くこと。その出逢える過程までもが美術鑑賞の楽しみの一つで、「サルバトール・ムンディ」が所在不明で見られないままであるのは、やはり悲しいことだ。
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