緑道北口から、池部駅(近鉄田原本線)に向かっていると
前を歩かれる人たちが左側を見ています。
私も一緒になって覗いてみると、そこは・・・
旧豆山荘
大正末年、大和鉄道建設の森本千吉氏(新王寺―田原本間を開通させた人)が、馬見丘陵の大自然を取り入れ広大な邸宅と庭園を構築され「豆山荘」と名づけられました。、
森本氏が逝去された後は、財界の第一人者、新庄町(現 葛城市)出身の吉川京松氏が譲り受け、豆山荘の維持保存に努められました。吉川氏は河合村役場を豆山荘に移転したいという当時村長の木下氏からの要望に応え、昭和23年に豆山荘を河合村に譲られたそうです。
正門は重厚感漂う落ち着いた和風建築ですが
門の両脇には、阿形(あぎょう)・吽形(うんぎょう)の口をした
ライオンのレリーフがあり、大正12年(1923)の銘が刻まれています。
ハイキングの帰りなので庭園には入りませんでしたが、庭園は馬見丘陵の自然を生かして造られているので、ここに繁茂する樹木のほとんどは馬見丘陵に自生する自然木だそうです。由緒あるこの庭園を憩いの空間として、役場休業日も自由に散策することができるそうです。
ホームページは こちら でご覧ください。
前を歩かれる人たちが左側を見ています。
私も一緒になって覗いてみると、そこは・・・
旧豆山荘
大正末年、大和鉄道建設の森本千吉氏(新王寺―田原本間を開通させた人)が、馬見丘陵の大自然を取り入れ広大な邸宅と庭園を構築され「豆山荘」と名づけられました。、
森本氏が逝去された後は、財界の第一人者、新庄町(現 葛城市)出身の吉川京松氏が譲り受け、豆山荘の維持保存に努められました。吉川氏は河合村役場を豆山荘に移転したいという当時村長の木下氏からの要望に応え、昭和23年に豆山荘を河合村に譲られたそうです。
正門は重厚感漂う落ち着いた和風建築ですが
門の両脇には、阿形(あぎょう)・吽形(うんぎょう)の口をした
ライオンのレリーフがあり、大正12年(1923)の銘が刻まれています。
ハイキングの帰りなので庭園には入りませんでしたが、庭園は馬見丘陵の自然を生かして造られているので、ここに繁茂する樹木のほとんどは馬見丘陵に自生する自然木だそうです。由緒あるこの庭園を憩いの空間として、役場休業日も自由に散策することができるそうです。
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