昨日のニュース番組で、大原野神社の「開花してから3日程で散る幻の桜」が
紹介されていました。大原野神社は、昨年に行ったところなので見ていると・・・
大原野神社の千眼桜(センガンザクラ)と呼ばれるしだ桜は
開花してから3日程で散ってしまうので“幻の桜“とも呼ばれているそうです。
昨年の「大原野神社」で撮った写真には・・・
行ったのは4月18日だったので、千眼桜の写真はありませんでしたが
千眼桜のあった場所は、ここだと憶えていました。(^^ゞ
ここからは、昨年の大原野神社です。
「大原野の歴史と自然探索」に参加して 2019年4月18日(木)
阪急東向日駅
集合場所の東向日駅から
阪急バスに揺られて「南春日町」へ向かいます。
大原野神社
大原野神社は「南春日町」バス停から徒歩で数分のところです。
私たち以外にも、多くの人が来られていました。
鳥居の扁額
大原野神社は長岡京の西、小塩山の東麓に鎮座し
別称「京春日」と呼ばれる春日大社第一のご分所です。
一の鳥居から続く新緑のトンネルを抜け「二の鳥居」をくぐり
参道を奥に進むと「三の鳥居」の手前右手に見えたのは・・・
猿沢池を模した鯉沢池
長岡京遷都(784)の際に、奈良・春日大社第一のご分所になりました。
参道沿いには、文徳天皇が造ったとされる「猿沢池を模した鯉沢」の池です。
和歌に詠まれた名高い清水「瀬和井(せがい)」
参道の左手に「瀬和井(せがい)」と呼ばれる
清和天皇の産湯に使われたと伝わる清水があります。
清水大伴家持が詠まれた有名な歌に
『大原やせがいの水を手にむすび鳥は鳴くとも遊びてゆかん』
青もみじがきれいです!
紅葉の季節にも来たくなりますね・・・(^^ゞ
手水所
一直線に伸びた参道沿いの手水所に「鹿」の姿があります。
鹿の手水は神社の縁起を書いた巻物からお水が出ています。
三の鳥居から見える拝殿
五十代桓武天皇が、鷹狩に大原野の地に足を運んで鷹を放たれた節に
藤原氏の人々も多く参加し、人々がこの地の風景の美しいのを誉で
氏神である奈良春日大社の分霊をうつし祀ることになったのが起こりです。
その後約60年を経た嘉祥三年(850)に、左大臣藤原冬嗣のむすめ順子を母とした文徳天皇が、祖父、冬嗣の願望を想いだしこの地に壮麗な社殿を造営しました。
御祭神は、奈良の春日大社と同じ
建御賀豆智命 (たけみかづちのみこと)
伊波比主命 (いわいぬしのみこと)
天之子八根命 (あめのこやねのみこと)
比賣大神 (ひめおおかみ)
一対の狛鹿
参道の石段を上がると
嘉祥3年(850)に文徳天皇が造営された壮麗な社殿前には、
右に立派な角がある雄鹿、左には優しい表情の雌鹿です。
二の鳥居に戻る参道の右から
次の目的地「勝持寺」に通じる横道を通り
花のお寺「勝持寺」に向かいました。
※源氏物語の作者紫式部は大原野神社を氏神と崇め、この大原野の地をこよなく愛していました。源氏物語二十九帖「行幸(みゆき)」の巻には、大原野へと向かう冷泉帝の華やかで美しい行列の様子が描かれているそうです。
紹介されていました。大原野神社は、昨年に行ったところなので見ていると・・・
大原野神社の千眼桜(センガンザクラ)と呼ばれるしだ桜は
開花してから3日程で散ってしまうので“幻の桜“とも呼ばれているそうです。
昨年の「大原野神社」で撮った写真には・・・
行ったのは4月18日だったので、千眼桜の写真はありませんでしたが
千眼桜のあった場所は、ここだと憶えていました。(^^ゞ
ここからは、昨年の大原野神社です。
「大原野の歴史と自然探索」に参加して 2019年4月18日(木)
阪急東向日駅
集合場所の東向日駅から
阪急バスに揺られて「南春日町」へ向かいます。
大原野神社
大原野神社は「南春日町」バス停から徒歩で数分のところです。
私たち以外にも、多くの人が来られていました。
鳥居の扁額
大原野神社は長岡京の西、小塩山の東麓に鎮座し
別称「京春日」と呼ばれる春日大社第一のご分所です。
一の鳥居から続く新緑のトンネルを抜け「二の鳥居」をくぐり
参道を奥に進むと「三の鳥居」の手前右手に見えたのは・・・
猿沢池を模した鯉沢池
長岡京遷都(784)の際に、奈良・春日大社第一のご分所になりました。
参道沿いには、文徳天皇が造ったとされる「猿沢池を模した鯉沢」の池です。
和歌に詠まれた名高い清水「瀬和井(せがい)」
参道の左手に「瀬和井(せがい)」と呼ばれる
清和天皇の産湯に使われたと伝わる清水があります。
清水大伴家持が詠まれた有名な歌に
『大原やせがいの水を手にむすび鳥は鳴くとも遊びてゆかん』
青もみじがきれいです!
紅葉の季節にも来たくなりますね・・・(^^ゞ
手水所
一直線に伸びた参道沿いの手水所に「鹿」の姿があります。
鹿の手水は神社の縁起を書いた巻物からお水が出ています。
三の鳥居から見える拝殿
五十代桓武天皇が、鷹狩に大原野の地に足を運んで鷹を放たれた節に
藤原氏の人々も多く参加し、人々がこの地の風景の美しいのを誉で
氏神である奈良春日大社の分霊をうつし祀ることになったのが起こりです。
その後約60年を経た嘉祥三年(850)に、左大臣藤原冬嗣のむすめ順子を母とした文徳天皇が、祖父、冬嗣の願望を想いだしこの地に壮麗な社殿を造営しました。
御祭神は、奈良の春日大社と同じ
建御賀豆智命 (たけみかづちのみこと)
伊波比主命 (いわいぬしのみこと)
天之子八根命 (あめのこやねのみこと)
比賣大神 (ひめおおかみ)
一対の狛鹿
参道の石段を上がると
嘉祥3年(850)に文徳天皇が造営された壮麗な社殿前には、
右に立派な角がある雄鹿、左には優しい表情の雌鹿です。
二の鳥居に戻る参道の右から
次の目的地「勝持寺」に通じる横道を通り
花のお寺「勝持寺」に向かいました。
※源氏物語の作者紫式部は大原野神社を氏神と崇め、この大原野の地をこよなく愛していました。源氏物語二十九帖「行幸(みゆき)」の巻には、大原野へと向かう冷泉帝の華やかで美しい行列の様子が描かれているそうです。