「大阪府の高齢者の行動制限してください。」と言われますが
下記のような投稿があり、私も同じことを言いたいです。
素直に従うような高齢者は、自己判断ですでに自粛しています。
何言われても好き勝手する人は、どうにもできないのだと思います。
⑥「親子地蔵・一畑薬師・六地蔵菩薩・敦盛首塚・三重塔」のつづきです。
三重塔
三重塔の右横に見えるのは「出世稲荷」です。
須磨の仇浪(すまのあだなみ)→親子地蔵→きんぽとん童子→一畑薬師(いちばたやくし)・六地蔵菩薩→敦盛首塚→三重塔→現在地
宝物館前 「ぶじかえる」
ボクは目玉と首がまわる蛙です。
ビックリしたい人は目玉を、借金で困っている人は
首をまわして下さい。
宝物館前 「七福神マニコロ」
七福神をまわしながら拝んでください。
亀の背中に乗ってもかまいません。
七福神の上には乗らないで下さい。バチが当たります。
宝物館内「光源氏を彩る人々」
光源氏を中央に、紫式部・桐壺更衣・夕顔・葵の上・葵の下・・・
須磨寺小石人形舎
アートデザイナーの故木島武雄氏が須磨や各地の小石を集めて、自然の造型をそのまま利用して作り上げた珍しい独特の小石人形が、平家の人々、福原京、源平合戦の様子が再現されていました。
宝物館
青葉の笛
熊谷直実に討たれた平敦盛が身に着けていた竹笛。
唱歌『青葉の笛』
一の谷の 軍破れ 討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に 聞こえしはこれか
『青葉の笛』は、弘法大師が唐に留学していた時に作ったもので、帰国後に嵯峨天皇に献上されて『青葉の笛』と名付けられ、その後、敦盛の祖父・忠盛が鳥羽院に賜ったのだと伝えられています。
弁慶のつり鐘
一ノ谷の戦いで、弁慶が長刀の端にかけ、もう一方の端には提灯を吊るして陣鐘の代わりにしたという伝説から「弁慶のつり鐘」と呼ばれています。
※「提灯に釣り鐘」という諺は、この伝説から生まれたのだとか。
●三井寺で「弁慶の引き摺り鐘」を見たことがあります。2013年8月
山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると
『いの~・いの~』(関西弁で “帰る~”の意味) と響いたので、弁慶は
「そんなに三井寺に帰りたいのか!」 と怒って、鐘を谷底へ投げ捨て
鐘にはその時のものと思われる引き摺った痕やヒビが残っています。
この鐘は寺に変事があるときには、その前兆として不可思議な現象があり
良くないことがあるときには、鐘が汗をかき撞いても鳴らなかったそうですが、良いことがあるときには自然に鳴るといいわれています。
馬盥(うまたらい)の額
宝物館の中門に懸かっていた「馬盥の額」
今、中門はありません。
鰐口(わにぐち)
仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種で
金口、金鼓とも呼ばれる打ち鳴らす仏具。
扁額の福祥寺と鬼面
福祥寺(ふくしょうじ)
須磨寺と呼ばれていますが
正しくは、真言宗須磨寺派の本山「上野山 福祥寺」です。
平安時代初期、兵庫県和田沖で引き上げられた聖観世音菩薩像を886年(仁和2年)光孝天皇の勅命により、聞鏡上人が本尊とし奉祀したのが始まりとされています。
鬼面
運慶作(伝) 正月6日 追儺式に使用
鬼追いにつながる護法が須磨寺に永正元年(1504)、三木市蓮花寺より伝授されたとの記録が南北朝時代より歴代住職が記録したといわれる須磨寺の「当山歴代」に掲載されているそうです。
わらべじぞう
宝物館前の「わらべじぞう」に見送られて須磨寺を後にします。
須磨寺の名前が全国的に知られるようになったのは
寿永3年(1184)源平一の谷合戦の舞台になったことからでした。
一の谷合戦が行われた時
須磨寺は源氏の大将源義経の陣地であったと伝えられています。海と山がせまった地形を利用し、海側に陣を構えた平家の裏をかき、義経は山から崖を馬で駆け下り逆落としの奇襲をかけます。不意を突かれた平家は、海へと逃げることしかできず、源氏の歴史的な勝利となりました。
「青葉の笛・弁慶の釣鐘」を見ることが出来ましたので
砂浜を歩きたい!から始まった「須磨海岸」へ向かいます。
下記のような投稿があり、私も同じことを言いたいです。
素直に従うような高齢者は、自己判断ですでに自粛しています。
何言われても好き勝手する人は、どうにもできないのだと思います。
⑥「親子地蔵・一畑薬師・六地蔵菩薩・敦盛首塚・三重塔」のつづきです。
三重塔
三重塔の右横に見えるのは「出世稲荷」です。
須磨の仇浪(すまのあだなみ)→親子地蔵→きんぽとん童子→一畑薬師(いちばたやくし)・六地蔵菩薩→敦盛首塚→三重塔→現在地
宝物館前 「ぶじかえる」
ボクは目玉と首がまわる蛙です。
ビックリしたい人は目玉を、借金で困っている人は
首をまわして下さい。
宝物館前 「七福神マニコロ」
七福神をまわしながら拝んでください。
亀の背中に乗ってもかまいません。
七福神の上には乗らないで下さい。バチが当たります。
宝物館内「光源氏を彩る人々」
光源氏を中央に、紫式部・桐壺更衣・夕顔・葵の上・葵の下・・・
須磨寺小石人形舎
アートデザイナーの故木島武雄氏が須磨や各地の小石を集めて、自然の造型をそのまま利用して作り上げた珍しい独特の小石人形が、平家の人々、福原京、源平合戦の様子が再現されていました。
宝物館
青葉の笛
熊谷直実に討たれた平敦盛が身に着けていた竹笛。
唱歌『青葉の笛』
一の谷の 軍破れ 討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に 聞こえしはこれか
『青葉の笛』は、弘法大師が唐に留学していた時に作ったもので、帰国後に嵯峨天皇に献上されて『青葉の笛』と名付けられ、その後、敦盛の祖父・忠盛が鳥羽院に賜ったのだと伝えられています。
弁慶のつり鐘
一ノ谷の戦いで、弁慶が長刀の端にかけ、もう一方の端には提灯を吊るして陣鐘の代わりにしたという伝説から「弁慶のつり鐘」と呼ばれています。
※「提灯に釣り鐘」という諺は、この伝説から生まれたのだとか。
●三井寺で「弁慶の引き摺り鐘」を見たことがあります。2013年8月
山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると
『いの~・いの~』(関西弁で “帰る~”の意味) と響いたので、弁慶は
「そんなに三井寺に帰りたいのか!」 と怒って、鐘を谷底へ投げ捨て
鐘にはその時のものと思われる引き摺った痕やヒビが残っています。
この鐘は寺に変事があるときには、その前兆として不可思議な現象があり
良くないことがあるときには、鐘が汗をかき撞いても鳴らなかったそうですが、良いことがあるときには自然に鳴るといいわれています。
馬盥(うまたらい)の額
宝物館の中門に懸かっていた「馬盥の額」
今、中門はありません。
鰐口(わにぐち)
仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種で
金口、金鼓とも呼ばれる打ち鳴らす仏具。
扁額の福祥寺と鬼面
福祥寺(ふくしょうじ)
須磨寺と呼ばれていますが
正しくは、真言宗須磨寺派の本山「上野山 福祥寺」です。
平安時代初期、兵庫県和田沖で引き上げられた聖観世音菩薩像を886年(仁和2年)光孝天皇の勅命により、聞鏡上人が本尊とし奉祀したのが始まりとされています。
鬼面
運慶作(伝) 正月6日 追儺式に使用
鬼追いにつながる護法が須磨寺に永正元年(1504)、三木市蓮花寺より伝授されたとの記録が南北朝時代より歴代住職が記録したといわれる須磨寺の「当山歴代」に掲載されているそうです。
わらべじぞう
宝物館前の「わらべじぞう」に見送られて須磨寺を後にします。
須磨寺の名前が全国的に知られるようになったのは
寿永3年(1184)源平一の谷合戦の舞台になったことからでした。
一の谷合戦が行われた時
須磨寺は源氏の大将源義経の陣地であったと伝えられています。海と山がせまった地形を利用し、海側に陣を構えた平家の裏をかき、義経は山から崖を馬で駆け下り逆落としの奇襲をかけます。不意を突かれた平家は、海へと逃げることしかできず、源氏の歴史的な勝利となりました。
「青葉の笛・弁慶の釣鐘」を見ることが出来ましたので
砂浜を歩きたい!から始まった「須磨海岸」へ向かいます。
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