③「御影堂→法然上人の「石棺」→モミ→阿弥陀堂」のつづき
阿弥陀堂(写真禁止)を出て「御影堂」へ向かいます。
阿弥陀堂と御影堂とは渡り廊下で繋がっています。
御影堂(みえどう)
御影堂からは入れないので「阿弥陀堂」から入ってきました。
御影堂(写真禁止)を出たところです。
順路に沿って渡り廊下のある方向に向かいます。
この渡り廊下は「釈迦堂(方丈)」へと繋がっています。
右側は御影堂の裏側で、先には阿弥陀堂が見えています。
渡り廊下を行くと、その先は何段もある下り階段です。
階段の途中からお庭が見えています。
釈迦堂前に広がる石庭 信楽庭(しんぎょうてい)
階段を下りたところは、信楽庭でした。
白砂に大小十八個の石を配して、弥陀三尊を仰ぎつつ、一人の行者が生死の大海を渡っていく姿を現しています。
昭和36年、第75世霊空賢龍上人代に造園される。信楽は信とは信じる、楽とは願う、つまり信じ願えば必ず救われるという意味です。
阿弥陀仏の事を説明している無量寿経の一節「至心信楽欲生我国(心から我が国に生まれたいと信じ願って)」より引用。
釈迦堂
寺宝展が開催されていたので入ってみます。
普段見ることのできない光明寺の寺宝の展示会です。
浄土曼荼羅などが公開されていました。(写真禁止)
釈迦堂 方丈
釈迦堂の創立は延宝以前ですが、享保の火災で焼け
その後、元文元年(1736)に再建されました。
お堂に祀る「頬やけの釈迦如来」は
左手に鉄鉢、右手に錫杖を持つ姿で、頬にやけどの跡があるところから「頬やけの釈迦如来」と呼ばれています。
淀の水津村の漁師で悪次郎とあだ名されたほどの乱暴者が、托鉢の僧(お釈迦様)と出会って心を入れ替えるという物語に登場する仏像で、頬には悪次郎に鉄火箸で焼かれた跡が残っていました。
勅使門
庭から見える門は
朝廷からの勅使参向のとき、勅使の通行に使われる門です。
万延元年(1860)第59世誠空仙意上人代建造され、平成30年に修復。四脚門で檜皮葺、切妻造の屋根の前後に軒唐破風を備え唐戸をたてていることから、唐門とも呼ばれています。
信楽庭を後にします。
「法然上人御火葬跡」へ続きます。
阿弥陀堂(写真禁止)を出て「御影堂」へ向かいます。
阿弥陀堂と御影堂とは渡り廊下で繋がっています。
御影堂(みえどう)
御影堂からは入れないので「阿弥陀堂」から入ってきました。
御影堂(写真禁止)を出たところです。
順路に沿って渡り廊下のある方向に向かいます。
この渡り廊下は「釈迦堂(方丈)」へと繋がっています。
右側は御影堂の裏側で、先には阿弥陀堂が見えています。
渡り廊下を行くと、その先は何段もある下り階段です。
階段の途中からお庭が見えています。
釈迦堂前に広がる石庭 信楽庭(しんぎょうてい)
階段を下りたところは、信楽庭でした。
白砂に大小十八個の石を配して、弥陀三尊を仰ぎつつ、一人の行者が生死の大海を渡っていく姿を現しています。
昭和36年、第75世霊空賢龍上人代に造園される。信楽は信とは信じる、楽とは願う、つまり信じ願えば必ず救われるという意味です。
阿弥陀仏の事を説明している無量寿経の一節「至心信楽欲生我国(心から我が国に生まれたいと信じ願って)」より引用。
釈迦堂
寺宝展が開催されていたので入ってみます。
普段見ることのできない光明寺の寺宝の展示会です。
浄土曼荼羅などが公開されていました。(写真禁止)
釈迦堂 方丈
釈迦堂の創立は延宝以前ですが、享保の火災で焼け
その後、元文元年(1736)に再建されました。
お堂に祀る「頬やけの釈迦如来」は
左手に鉄鉢、右手に錫杖を持つ姿で、頬にやけどの跡があるところから「頬やけの釈迦如来」と呼ばれています。
淀の水津村の漁師で悪次郎とあだ名されたほどの乱暴者が、托鉢の僧(お釈迦様)と出会って心を入れ替えるという物語に登場する仏像で、頬には悪次郎に鉄火箸で焼かれた跡が残っていました。
勅使門
庭から見える門は
朝廷からの勅使参向のとき、勅使の通行に使われる門です。
万延元年(1860)第59世誠空仙意上人代建造され、平成30年に修復。四脚門で檜皮葺、切妻造の屋根の前後に軒唐破風を備え唐戸をたてていることから、唐門とも呼ばれています。
信楽庭を後にします。
「法然上人御火葬跡」へ続きます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます