10月度歴史クラブは、初秋の嵯峨野 大覚寺・大沢池でした。
「大覚寺」は「檀林皇后がお描きになった薬師三尊」が、写仏の始まりと知った時から行きたいと思っていたところです。
日本の第52代天皇・嵯峨天皇の皇后
「橘 嘉智子(たちばな の かちこ)」は【檀林皇后九相観】で
知られる「檀林皇后(だんりんこうごう)」です。
※九相図は、遺骸が朽ちていくさまを9段階に描いた仏教画。
10月16日(水)
阪急嵐山駅から
ハイキングだったら、歩くところですが・・・
歴史クラブなので
京都バスに乗って、阪急嵐山から大覚寺へ
定員15名(参加希望が多いので定員)でスタートしました。
大覚寺に向かって歩いていると
道の左に見えたのは「嵯峨御流華道芸術学院」
嵯峨御流(さがごりゅう)は嵯峨天皇が創始されたとする華道で
峨御流総司所は大覚寺にあります。
閑静な小道を歩いて行くと門前を流れる御殿川
写真左の大覚寺へは、川に架けられた小さな石橋を渡ります。
大覚寺の「明智門」
大覚寺の二つ並んでいる門の向かって左の白い門。
明智光秀が居城としていた亀山城の一部を移築した
明智門と、その奥には明智陣屋という建造物があります。
この場所は時代劇の撮影に使われる事が多いそうです。
表門前には
大覚寺 旧嵯峨御所
嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の本山である。
当山は、嵯峨天皇の離宮嵯峨院(のち仙洞御所)の一部で、天皇崩御の後の貞観十八年(八七六)に寺に改められ、大覚寺と名付けられた。その後一時荒廃したが、文永五年(一二六八)に後嵯峨上皇、続いて亀山法皇、後宇多法皇が入寺し、寺を復興するとともに大覚寺統を形成し、持明院統と皇位継承について争った。元弘三年(一三三三)、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇によって建武新政(けんむのしんせい)が行われるが、足利尊氏と対立し、南北朝時代を迎える。明徳三年(一三九二)当寺で南北両朝の媾和が成立した。
宸殿は、後水尾天皇の中宮東福門院の旧殿を移築したもので、内部は、狩野山楽筆の「牡丹図」、「紅白梅図」などの豪華な襖絵で飾られている。その外、御影堂(みえどう)、五大堂、霊明殿(れいめいでん)、安井堂、正寝殿(しょうしんでん)、庫裏(くり)などの堂宇(どうう)が建ち並び、旧御所の絢爛さを今に伝えるとともに、勅封の般若心経を奉安する皇室ゆかりの寺院である。 京都市
表門
私たちは、明智門の右にある「表門」から入りました。
式台玄関
表門をくぐって、右側が式台玄関です。
式台玄関は、江戸時代に京都御所から移築したものとされていて、現在は特別な賓客がお越しになられたときなどに使われています。
私たちは式台玄関の左から入って参拝料を払うのですが
今日は歴史クラブへの援助がありました。(^^♪
みんなと中へ入って行くと
そこには、第91代天皇の後宇多法皇が使用した御輿が・・・
御輿には後宇多法皇の御紋である「九曜菊(くようぎく)」
そして、玄関内部の障壁画に描かれているのは
狩野永徳筆の重要文化財「 松二山鳥図 (まつにやまどりず) 」
心経前殿(御影堂)へと向かいますが
長くなりますので次へと続きます。
「大覚寺」は「檀林皇后がお描きになった薬師三尊」が、写仏の始まりと知った時から行きたいと思っていたところです。
日本の第52代天皇・嵯峨天皇の皇后
「橘 嘉智子(たちばな の かちこ)」は【檀林皇后九相観】で
知られる「檀林皇后(だんりんこうごう)」です。
※九相図は、遺骸が朽ちていくさまを9段階に描いた仏教画。
10月16日(水)
阪急嵐山駅から
ハイキングだったら、歩くところですが・・・
歴史クラブなので
京都バスに乗って、阪急嵐山から大覚寺へ
定員15名(参加希望が多いので定員)でスタートしました。
大覚寺に向かって歩いていると
道の左に見えたのは「嵯峨御流華道芸術学院」
嵯峨御流(さがごりゅう)は嵯峨天皇が創始されたとする華道で
峨御流総司所は大覚寺にあります。
閑静な小道を歩いて行くと門前を流れる御殿川
写真左の大覚寺へは、川に架けられた小さな石橋を渡ります。
大覚寺の「明智門」
大覚寺の二つ並んでいる門の向かって左の白い門。
明智光秀が居城としていた亀山城の一部を移築した
明智門と、その奥には明智陣屋という建造物があります。
この場所は時代劇の撮影に使われる事が多いそうです。
表門前には
大覚寺 旧嵯峨御所
嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の本山である。
当山は、嵯峨天皇の離宮嵯峨院(のち仙洞御所)の一部で、天皇崩御の後の貞観十八年(八七六)に寺に改められ、大覚寺と名付けられた。その後一時荒廃したが、文永五年(一二六八)に後嵯峨上皇、続いて亀山法皇、後宇多法皇が入寺し、寺を復興するとともに大覚寺統を形成し、持明院統と皇位継承について争った。元弘三年(一三三三)、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇によって建武新政(けんむのしんせい)が行われるが、足利尊氏と対立し、南北朝時代を迎える。明徳三年(一三九二)当寺で南北両朝の媾和が成立した。
宸殿は、後水尾天皇の中宮東福門院の旧殿を移築したもので、内部は、狩野山楽筆の「牡丹図」、「紅白梅図」などの豪華な襖絵で飾られている。その外、御影堂(みえどう)、五大堂、霊明殿(れいめいでん)、安井堂、正寝殿(しょうしんでん)、庫裏(くり)などの堂宇(どうう)が建ち並び、旧御所の絢爛さを今に伝えるとともに、勅封の般若心経を奉安する皇室ゆかりの寺院である。 京都市
表門
私たちは、明智門の右にある「表門」から入りました。
式台玄関
表門をくぐって、右側が式台玄関です。
式台玄関は、江戸時代に京都御所から移築したものとされていて、現在は特別な賓客がお越しになられたときなどに使われています。
私たちは式台玄関の左から入って参拝料を払うのですが
今日は歴史クラブへの援助がありました。(^^♪
みんなと中へ入って行くと
そこには、第91代天皇の後宇多法皇が使用した御輿が・・・
御輿には後宇多法皇の御紋である「九曜菊(くようぎく)」
そして、玄関内部の障壁画に描かれているのは
狩野永徳筆の重要文化財「 松二山鳥図 (まつにやまどりず) 」
心経前殿(御影堂)へと向かいますが
長くなりますので次へと続きます。
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