kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

京都・分からないように城構えだった「金戒光明寺」

2024年01月26日 | 京都
京都へは何度も行ってますが
「アフロ大仏 五劫思惟阿弥陀仏さま」に会いたくて
2020年に初めて「金戒光明寺」へ行きました。


金戎光明寺

「黒谷金戒光明寺」は、新選組発祥の地でもあります。

新選組と會津藩の関係は、幕府が文久二年将軍上洛警備のために
浪士組を結成したことに始まります。


高麗門

徳川家康は幕府を盤石なものにする為
特に京都に力を注ぎました。

直轄地として二条城を作り所司代を置き、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院をそれと分からないように城構えにしました。

黒谷に大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく
西側には立派な高麗門が城門のように建てられたそうです。



幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し
手のつけようのない状態になっていました。

文久二年(1862)に徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになりました。これが京都守護職です。



御所まで約2㎞、粟田口(三条大橋東)東海道の発着点までは1.5㎞のくだり、馬で走れば約5分、人でも急げば15分で到着できる要衝の地だったのです。



黒谷には大小五十二の宿坊があり、駐屯の為に大方丈及び宿坊二十五ヶ寺を寄宿のため明け渡したという文書が残されています。



浄土宗の大本山、承安5年法然上人が比叡山の黒谷を下り
草庵を結ばれたのが、浄土宗最初の寺院のはじまりです。



階段を上がった左に鐘楼があり



上がってきた階段から振り返ると「山門」が見えます。

ここからは、京都を見渡せることができるので
要衝の地に選ばれたことが分かるような気がします。



正面の御影堂には
宗祖法然上人75歳の御影(座像)を奉安されています。

次へと続きますが
右の道を行くと「アフロ大仏」さんと会えますので
あなたにも「アフロ大仏」さんに会って欲しいです。(^^♪

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