尼崎えびす神社→貴布禰神社→長遠寺→大覚寺→法園寺へ
七福神めぐり 「7.法園寺(ほうおんじ)」
室町時代に勝誉恵光法園上人が開基したと伝えられています。
近世尼崎城築城にともない元和年間(1615-1624)に
寺町へ移転したと考えられます。
戦国武将佐々成政の墓碑
戦国武将成政は豊臣秀吉のもとで肥後国主在任中、領地内で反乱がおこり、その責により天正16年(1588)尼崎で切腹させられました。
山門を入って左側の墓碑は複製で、実物は本堂内に保管されているそうです。
七福神めぐり 「6.常楽寺」
寺伝によれば永正元年(1504)心誉浄雲上人による開基と伝えられています。
尼崎城築城に際して大物の地より現在地に移されました。
寛永12年(1635)には、「戸田氏鉄(とだうじかね)」が美濃大垣へ
移封される際、大垣に分寺し現在も同地に常楽寺として残っています。
元和3年(1617)尼崎郡代であった一万石の大名、「建部政長」が林田藩へ転封されかわりに、近江膳所から「戸田氏鉄」が入部。氏鉄は五万石の尼崎藩主となり、幕府から新尼崎城の築城を命ぜられ完成させました。
その後、寛永12年(1635)戸田氏鉄は美濃大垣に転封され、かわって遠江掛川から青山幸成が尼崎藩主(五万石)になりました。さらに青山氏は宝永8年(1711)幸秀のとき信濃飯山へ転封して、遠江掛川から松平忠喬が尼崎藩主(四万石)になり、以後、松平氏は7代にわたって尼崎藩を治め、明治維新を迎えました。
氏鉄公は、徳川家康の近習を勤め、関ヶ原の戦い後、摂津尼崎5万石から、寛永12年8月大垣に栄転した徳川譜代の大名です。
尼崎寺町 七福神めぐりは、無料のボランティアガイドさんが案内して下さってるのですが、法園寺と常楽寺は説明だけで、中に入りませんでしたが
七福神「法園寺の布袋尊・常楽寺の寿老人」の朱印はあるそうです。
七福神めぐり 「7.法園寺(ほうおんじ)」
室町時代に勝誉恵光法園上人が開基したと伝えられています。
近世尼崎城築城にともない元和年間(1615-1624)に
寺町へ移転したと考えられます。
戦国武将佐々成政の墓碑
戦国武将成政は豊臣秀吉のもとで肥後国主在任中、領地内で反乱がおこり、その責により天正16年(1588)尼崎で切腹させられました。
山門を入って左側の墓碑は複製で、実物は本堂内に保管されているそうです。
七福神めぐり 「6.常楽寺」
寺伝によれば永正元年(1504)心誉浄雲上人による開基と伝えられています。
尼崎城築城に際して大物の地より現在地に移されました。
寛永12年(1635)には、「戸田氏鉄(とだうじかね)」が美濃大垣へ
移封される際、大垣に分寺し現在も同地に常楽寺として残っています。
元和3年(1617)尼崎郡代であった一万石の大名、「建部政長」が林田藩へ転封されかわりに、近江膳所から「戸田氏鉄」が入部。氏鉄は五万石の尼崎藩主となり、幕府から新尼崎城の築城を命ぜられ完成させました。
その後、寛永12年(1635)戸田氏鉄は美濃大垣に転封され、かわって遠江掛川から青山幸成が尼崎藩主(五万石)になりました。さらに青山氏は宝永8年(1711)幸秀のとき信濃飯山へ転封して、遠江掛川から松平忠喬が尼崎藩主(四万石)になり、以後、松平氏は7代にわたって尼崎藩を治め、明治維新を迎えました。
氏鉄公は、徳川家康の近習を勤め、関ヶ原の戦い後、摂津尼崎5万石から、寛永12年8月大垣に栄転した徳川譜代の大名です。
尼崎寺町 七福神めぐりは、無料のボランティアガイドさんが案内して下さってるのですが、法園寺と常楽寺は説明だけで、中に入りませんでしたが
七福神「法園寺の布袋尊・常楽寺の寿老人」の朱印はあるそうです。
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