kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

大阪・高槻市の花「うの花で知られる玉川の里」2022/01/28

2022年03月14日 | ハイキング・登山
大阪・高槻市「史蹟 番田大樋から玉川まで」2022/01/28 のつづきです。


友人が教えてくれたので、分からずに撮りましたが
その鳥は「ヨシガモのオス」でした。


そして、これは友人が撮った「ヨシガモ」の写真です。

私の写真と違い、とてもきれいに撮られています。(^^ゞ
ヨシガモのオス(メスは地味)は、緑色に輝く美しい姿で
尾っぽの羽は、くるっと可愛くカールしています。


橋が架かって、他の川と合流しています。

番田水路玉川緑地

玉川に着いたようです。

番田拝水路は、江戸時代槻市大冠地域の悪水を玉川へ放流するため、芝生大樋より下流が開削されたのがはじまりです。


初夏の玉川を詠んだ和歌・俳句には、「うのはな」が多く登場します。

全国に6ヶ所の玉川(六玉川)があり、高槻の玉川は、山城国、近江国などの玉川とともに、「摂津国三島の玉川」として六玉川のひとつに数えられていました。
それらは、地域ごとに、それぞれ詩歌に詠み込まれている風物が決まっていて、山城国井手は山吹、近江国野路は萩、武蔵国調布は晒布(さらしぬの)、陸前国野田は千鳥、紀伊国高野は旅人または氷で、摂津国三島は「うのはな」とされています。


道路を渡り、玉川橋の手前の道を左へ行きます。


元禄7年(1694)の夏、松尾芭蕉が伊賀上野(現伊賀市)に帰郷し、大坂や京に頻繁に出入りしていた頃に詠まれた句があります。


前の時も、左に見える道を通ってきました。


句碑の近くへ行ってみます。


「うのはなや 暗き柳の およびごし」  松尾芭蕉

2010年05月30日に、友人から「うの花」を見に行こうとお誘いがあり、玉川の里で白い可憐な「うの花」を見たのが思い出されます。
昭和42年(1967)市民の花に「うのはな」が選ばれました。



~~~~~~~ 2010年05月30日 投稿 より ~~~~~~~
玉川沿いの遊歩道は、高槻市の花 「卯の花」が見ごろでした。 



夏 は 来 ぬ
作詞:佐佐木信綱     作曲:小山作之助


卯の花の 匂う垣根に 時鳥 早も来なきて
忍音もらす 夏は来ぬ  ♪

さみだれ そそぐ山田に 早乙女が 裳裾ぬらして
玉苗植うる 夏は来ぬ  ♪

橘の かおる軒場の 窓近く 蛍飛びかい 
おこたり諫むる 夏は来ぬ  ♪

棟ちる 川べの宿の 門遠く 水鶏声して 
夕月すずしき 夏は来ぬ  ♪

五月闇 蛍飛びかい 水鶏なき 卯の花咲きて
早苗植えわたす 夏は来ぬ  ♪


卯の花といえば、誰でも知っている童謡の 「夏は来ぬ」 と・・・
“おから”でつくる美味しい卯の花ではないでしょうか。 (^^ゞ


卯の花は、日本や中国などに分布する落葉性の低木で5~6月に1.5cmほどの花をつけます。空木(ウツギ)の花の別称で、枝が成長すると内部が中空になるところから名付けられたそうです。


川沿いの遊歩道から、松尾芭蕉が残した「卯の花や 暗き柳の およびごし」の句碑が見えます。歌にも詠まれている「玉川の里」は、古くから卯の花の名所として知られていたのです。
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大阪・高槻市「史蹟 番田大樋から玉川まで」2022/01/28

2022年03月13日 | ハイキング・登山
今年の1月に友人から誘って頂いたのは
 友人:玉川まで歩きませんか?
 kiko:えっ! 玉川まで遠いけど歩いて・・・
 友人:何度も歩いているけど大丈夫。


番田大樋(ばんだ おおひ)

ここは、スタート地点の番田にある水門です。

友人から「高槻の下水は、何処に流れているか知ってる?」
と言われて、今まで考えたことは無いけど川ですよね。
そして、その下水がここに流れていることを初めて知りました。

慶安3年(1650)高槻は大洪水に見舞われ、淀川沿いの村々では収穫が半減するなど被害を受けました。
これを契機に、翌4年から高槻藩主 永井直清により、番田の排水路(井路)掘削工事が行われる事になりました。


ここは、色んな水路(下水)から集まっているそうです。

これは、天井川である芥川の川底の下を横断する木管で
番田井路と天正年間に完成した三箇牧井路を結ぶものでした。

工事は承応2年(1653)に完成し、番田の悪水は柱本で淀川に流されるようになりました。
でも、淀川川床の上昇のために改修が必要になり、元禄13年(1700)から、京都の高瀬川開削で知られる川村瑞賢の監督で再工事が行われ西に井路を、番田から芝生・玉川・安威川を経て神崎川へ至る経路を開削しました。


その後も改修が行われました・・・が

大正6年(1917)の大塚切れと呼ばれる大洪水を機会に大正12年(1923)改修工事が着工され、大正15年(1926)に2艘の樋を統合改築する工事が完成しました。大樋は、鉄筋コンクリート製で樋門の正面は赤煉瓦の構造物だったそうです。


番田側から流れてきた水は
玉川から安威川を経て神崎川へと流れます。


それでは、玉川へ向かって歩いて行きます。


写真左の道を歩いて行きます。


ここは、人も少なく豊富な水に囲まれて
水鳥の天国です。


そして、あの怖かった北大阪地震の傷跡が残っています。


歩いて行くと橋があり、いま歩いてきた道が
車の通る道路に遮られていますが


信号のない車道を渡ると、今までのような道が続いています。


ここは、水鳥のオアシスですね。


かわいいですね。(^^♪


何処を見ても、水鳥が見えます。


団地の方に架かる橋があります。


そして、何度も見た合流地点です。

もうすぐ目的地の玉川です・・・うの花で知られる玉川へ続きます。
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京都市東山区・悪縁を切り 良縁を結ぶ「安井金毘羅宮」

2022年03月09日 | 京都
織田有楽斎の菩提所「建仁寺・正伝 永源院」を出て
東大路通へ向かって歩いていると、右に見えたのは鳥居です。

悪縁を切り 良縁を結ぶ「安井金毘羅宮」

縁切りの神社があることは聞いたことはありますが
ここは初めてなので中に入ります。


沢山の絵馬があります。


「悪縁が断ち切れます様に」
悪縁は、即!切りたいですね。


こちらは何でしょう~?

拝殿

縁切りや良縁結びのご利益で知られる安井金毘羅宮は
第38代天智天皇時代に藤原鎌足が一堂を創建し、家門の隆昌と子孫の長久を祈ったことから始まったと言われています。

本殿

主祭神の崇徳天皇は、讃岐の金刀比羅宮で一切の欲を断ち切って参籠(おこもり)されたそうです。古来より断ち物の祈願所だったのですね。


拝殿に、長い行列ができています。


縁みくじ

縁切り縁結び碑

アッ! これは「縁切り」ができる神社だと
テレビで放送していたのを見たことがあります。


あの時は、神社名も場所も見ただけでしたが
安井金毘羅宮のことだったのです。

御祈願の方法は
①ご本殿にご参拝します。
②「形代」に切りたい縁・結びたい縁などの願い事を書きます。
③「形代」を持って願い事を念じながら碑の表から裏へ穴をくぐります。
  (悪縁を切り、次に裏から表へくぐって良縁を結びます。)
④最後に「形代(かたしろ)」を碑に貼ります。


高さ1.5m、幅3mの大きな絵馬の形をした石の穴をくぐって願い事をすると、中央の亀裂を通して神様のお力が円形の穴に注がれるそうです。

「形代(身代わりのおふだ)」が
たくさん貼られて、碑が見えないほどになっています。


桂 米團治さんが、奉納されています。


治承元年(1177年)、大円法師(だいえんほうし)が御堂にお籠りされた時に、崇徳上皇がお姿を現わされ往時の盛況をお示しになられました。このことは直ちに後白河法皇(ごしらかわほうおう)に奏上され、法皇のご命令により建立された光明院観勝寺の起こりといわれています。

光明院観勝寺は応仁の乱(1467~1477年)の兵火により荒廃しましたが、元禄8年(1695年)に太秦安井(京都市右京区)にあった蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として崇徳天皇、讃岐の金刀比羅宮より勧請した大物主神、源頼政公をお祀りしたことから「安井の金比羅さん」の名で知られるようになりました。

明治維新の後、蓮華光院を廃して「安井神社」と改称し
「安井金比羅宮」と改めたそうです。


安井金毘羅宮
 住所:京都府京都市東山区東大路松原上ル下弁天町70
 電話:075-561-5127
コメント (4)
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建仁寺・正伝 永源院②復元された有楽斎好みの「国宝の茶席 如庵」

2022年03月07日 | 観戦・鑑賞・参観・見学ほか
京の冬の旅 織田有楽斎の菩提所「建仁寺・正伝 永源院」のつづきです。

建仁寺には、その昔50院以上の塔頭寺院がありました。
しかし、明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響により、現在は14院が残るのみとなり、正伝永源院もそのうちの一つです。

方丈

細川護熙氏揮毫による襖絵の部屋を出て
隣の部屋へいきます。

院号・庵号の扁額「正伝院 永源庵」

隣の部屋は「正伝院」「永源庵」の院号、写真禁止で
狩野洞雲(益信)筆「観音図・雲龍図・虎図」三幅対の軸。

部屋の前から庭に出て「茶席 如庵」に行けるようですが・・・
後からにして廊下の奥へ


写真左に「茶席 如庵」が少し見えています。


廊下は右へ続いています。


もう少し奥まで行きます・・・


突き当りの左は、渡り廊下のようで
右へも廊下が続いています。


廊下の突き当りから見ると
奥に茶室のような建物が見えます。


そして、振り返ると「茶室 如庵」が見えています。


●国宝の茶席「如庵(じょあん)」
如庵は、有楽斎が元和4年(1618年)に建仁寺塔頭の正伝院に建てた茶席で、現在は有楽斎の生誕の地・愛知県犬山城下に移されている国宝の茶室。

「如庵」の扁額

「細川護貞 (ほそかわ もりさだ)」氏 揮毫。
細川 護熙(もりひろ)氏の父(1912- 2005)

追記
護貞氏は、旧肥後熊本藩主細川家の第17代当主。
第2次近衛内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた。


柿葺(こけらぶき)の端正な外観の、国宝の茶席「如庵」が
建仁寺・正伝 永源寺に復元されています。


左端に土間庇をつくり


袖壁の土間の左に円窓が切られ


右には、正面から見えず配置された「躙口」


この茶室の内部は二畳半台目で、床脇にウロコ板を入れ斜めの壁を作っているところから「筋違いの囲」といわれています。


古暦を腰貼りにした「有楽囲(うらくがこい)」
竹を詰め打ちにした「有楽窓(うらくまど)」など・・・


有楽斎好みの特徴を見ることができます。


帰る時に、入る時には気付かなかった「鐘楼」が
写真の右に見えています。
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京の冬の旅 織田有楽斎の菩提所「建仁寺・正伝 永源院」

2022年03月06日 | 観戦・鑑賞・参観・見学ほか
「京の冬の旅」へ行ったのは1月15日(土)ですが、更新が滞り・・・
京都・両足院④「池泉庭園に建つ茶室 水月亭と臨池亭」の続きです。


建仁寺・正伝 永源院へ向かうには
狛虎とムカデの「両足院」にお別れして
建仁寺さんの門を後にして、花見小路道に出ます。
花見小路道の最初の道を左(西方向)に行くと


右側の角に案内板があり「建仁寺・正伝 永源院」は
北方向に行きますが、建仁寺の塔頭寺院の一つです。


地図で見ると、このような位置にあります。


永源寺は、織田信長の弟(長益)で大名茶人として
名高い織田有楽斎という号を使っていた菩提所です。


長益は、信長の死後は剃髪し千利休に師事して茶道の宗匠になり、晩年は正伝院を再興し、茶道三昧の生活を送り、元和7年(1621)に75歳で亡くなりました。

そして、2022年は有楽斎の没後400年という記念の年でした。


開山時は「正伝院」と「永源庵」の二ヶ寺でしたが、「永源庵」は細川家の始祖細川頼有以後、八代の菩提寺であり数多くの菩提寺の中最も大切な寺でした。

廃仏毀釈運動の時に「永源」の名が消えることを憂いだ細川侯爵が、「永源」の名を残すことを希望され、明治時代に「正伝永源院」になりました。

門を入り左の門を入って行くと、左に織田有楽斎のお墓があります。


墓地の間を通り過ぎ、中へ入っていくと


左にお庭があり、廊下を進んで行くと右の部屋に


第79代内閣総理大臣 細川護熙氏揮毫による襖絵が奉納。

永源庵は無涯仁浩(建仁第39世 1294〜1359)が開山。
当時の備後守護であった細川頼有公が同庵の門前で無涯に会い馬上から門法したことが縁で師壇の関係ができました。


以後、細川家が同門住持に対する帰依は深まり1372年、永源庵はここで建仁寺塔頭に列し、以後細川家の庇護は明治迄続きました。

現在の客殿は細川三斎公により再建され、その時の住持は細川家より出家した「九岩中達(建仁第300世)」でした。
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スマホに挑戦

2022年03月01日 | パソコン・タブレット・スマホ
2月28日に、iPhone13を購入しました。テスト投稿!
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