しばらくぶりのブログ。
あまりの辛さゆえ、書く気持ちがわき起こってこなかった。
そしてようやく。
6月20日夜9時過ぎ。
私と子どもたちは夕食をすませ、くつろいでいた。
そこにお見舞いに向かった妻からの電話。
「お父さんが亡くなったんよ。」
おもわず「えーっ」という、驚きとため息の声しか出てこなかった。
義父との18年間の思い出が頭をかけめぐった。
同時に体からこみあげる熱いものを感じた。
明るく照れ屋の義父だった。
初めて妻の家を訪れたときも、かた苦しいあいさつはほどほどにして、
「まあ、飲みなはいや。」
と声をかけられ、ビールをついでもらった。
一気に緊張が和らいでいったことが昨日のことのように思い出された。
それ以来、義父とはよく飲んだ。
飲むほどに、息子に近づいていけたように思う。
私にとっては、二人目の父だった。
人は、誰しも
「おくりびと」となる。
そして、誰しも「おくられびと」となる。
1ヶ月にわたる集中治療。
6月20日、午後8時39分。
79歳の誕生日をむかえた翌日のこと、
父は「おくられびと」となった。
何らかの形で父のことを残しておきたいと思い、
ようやく書きとめることができた。
岬人(はなんちゅう)
あまりの辛さゆえ、書く気持ちがわき起こってこなかった。
そしてようやく。
6月20日夜9時過ぎ。
私と子どもたちは夕食をすませ、くつろいでいた。
そこにお見舞いに向かった妻からの電話。
「お父さんが亡くなったんよ。」
おもわず「えーっ」という、驚きとため息の声しか出てこなかった。
義父との18年間の思い出が頭をかけめぐった。
同時に体からこみあげる熱いものを感じた。
明るく照れ屋の義父だった。
初めて妻の家を訪れたときも、かた苦しいあいさつはほどほどにして、
「まあ、飲みなはいや。」
と声をかけられ、ビールをついでもらった。
一気に緊張が和らいでいったことが昨日のことのように思い出された。
それ以来、義父とはよく飲んだ。
飲むほどに、息子に近づいていけたように思う。
私にとっては、二人目の父だった。
人は、誰しも
「おくりびと」となる。
そして、誰しも「おくられびと」となる。
1ヶ月にわたる集中治療。
6月20日、午後8時39分。
79歳の誕生日をむかえた翌日のこと、
父は「おくられびと」となった。
何らかの形で父のことを残しておきたいと思い、
ようやく書きとめることができた。
岬人(はなんちゅう)