喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

「アラスカ物語」の主人公  アラスカのモーゼ(安田恭輔)

2013-10-07 | 感動
 伊方中学校での教え子が,今アラスカのフェアバンクスという街で暮らしている。
アラスカの大自然に驚き,感動し,現地の人たちとの出会いを通して,
さらにすてきな女性へと変わっている。

 彼女と連絡を取りながら,これを機会にアラスカについて興味がわいている。
いろいろと調べていると,ある日本人にたどりついた。
その人の名は,宮城県石巻市出身の故「安田恭輔」。
アラスカでは,フランク YASADA と呼ばれた。
 以下さまざまなものを調べた。




『今から100年ほど前、
宮城県石巻の青年、安田恭輔は、22歳の時単身アラスカの地に渡った。
乗り組み員となったアメリカ沿岸警備船がアラスカで寒波による氷に囲まれ身動きができなくなる。
 安田は救助を求めて、雪と氷の中を200キロ以上を数日間歩きイヌイットが多く住むバロー村まで死ぬ思いでたどり着く。
37名の乗組員は助かった。

 それが奇跡的な出会いとなった。
25歳の彼はそこに住みつくことを決心し、エスキモーの女性ネベロと結婚、フランク安田と名乗った。
主要産業である捕鯨の技術を教わり,そのリーダーになる。

 ところがバロー村を悲劇が襲う。
当時死の病といわれたはしかが流行し120人以上が亡くなる。
また白人の鯨乱獲による飢餓のため,バロー村は崩壊の危機におちいる。

 滅亡の淵に立った村人たち200人を引き連れて険しいブルックス山脈を越え600㎞を大移動。
3年間かけた苦難の末にアラスカ内陸部の新天地ビーバーへと移住させ絶滅から救った。

 第二次世界大戦中は3年間ものあいだ日系人捕虜強制収容に収容されるも、
彼は「アラスカのモーゼ」と呼ばれ人々から敬愛された。
 彼の作ったビーバー村は、今や空港まである村となっている。
アラスカにはブルックス山脈の1つに彼の名前を冠した「ヤスダマウンテン」という山もある。

 フランク安田さんをモデルにした、新田次郎『アラスカ物語』(新潮文庫1980年)がある。
そしてこれを映画化した『アラスカ物語』もあり,
テレビではドキュメンタリー番組まで作られた『アラスカの星』。

 フランク安田は、90歳の生涯を閉じるまで
ずっとアラスカのビーバー村で暮らし、一度も帰国しなかった。

 小説アラスカ物語の中では、晩年は何度か郷愁の思いにふける場面が登場するが、
実際もどんなにか帰りたかったのだろうと思う。
一度だけ、一時帰国のきっかけもあったようだが、それもあきらめる。
 エスキモーの奥さんや子供たちにも恵まれた彼は、もしかしたら
「一度帰ったらもう戻ってこれない」と思ったのではないかと思う。

 村のすぐそばを流れるアラスカのユーコン河を、故郷の石巻の北上川として映り、
目前の山や風景も幼少の頃の思い出の場所に見えていたのではないだろうか。』



 実にすごい日本人がいるものだ。
けっしてあきらめない気持ちとやさしさ。

 今アラスカに住んでいる教え子の100年ほど前には,
こんな先人がアラスカの大地で,現地の人と心を通わせる暮らしをしていたのだ。

 心が熱くなる。
自分もふるさとのためにできることはもっともっとありそうだ。