喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

最後に見たふるさとの風景と愛するわが子

2013-10-24 | ブログ


 一昨日の愛媛県原子力防災訓練。
第2次避難として、船に乗り大分県へ。

 岸壁を離れ、船に乗り少しずつ小さくなっていく港。
そしてある女の子の心の内。
「とても悲しくなりました。原発事故で船に乗って港を離れるということは、もう2度とふるさとには戻れないかもしれないんですよね。」

 この言葉を聞いて、脳裏にうかんだことがある。
70年前の太平洋戦争への出征の光景。
 私の亡き祖父金太郎は、この港から出征した。
見送る家族。見送られる祖父。
 祖父は、2度と見ることがないかもしれないふるさとの風景と、
そして2度と会えないかもしれない愛する家族を船の上からどんな思いで見たのだろう。


『父武久は、祖父金太郎と祖母ミチエの長男として昭和15年に生まれ、祖父鶴松からもたいへんかわいがられたようです。
 翌年1941(昭和16)年、12月8日の真珠湾攻撃で、太平洋戦争が始まります。
すでに始まっていた日中戦争は、泥沼化しており、日本はさらに苦難の道を歩みます。
 
 祖父金太郎のもとにも召集令状(赤紙)が届き、出征することになります。
生まれたばかりの娘(千鶴子)と3歳になった父、妻(ミチエ)そして体の弱い鶴松をのこしての出征は、
どんなに辛かったことでしょう。
 
 当時3歳の父には、自分の父金太郎の記憶はほとんどないそうです。
ところが、出征の日の記憶が、断片的にあるというのです。

 出征の日、平礒の村をあげて高台にあるお墓の四辻(よっつじ)まで見送られました。
 親族や親交の深かった人たちは、さらに峠を越えて、
三崎の港まで行きます。
 幼き父は、肩車をされて三崎港まで見送りに連れて行ってもらったそうです。

 沖には、八幡浜から九州別府行きの繁久丸が止まっており、
そこまでは、はしけという小舟に乗って行くのです。



 ほとんどの人は、港の岸壁から見送るところを、
父は、「いっしょに行く。いっしょに行く。」
と言ってきかず、はしけに乗らせてもらい、繁久丸まで連れて行ってもらったそうです。
 父の記憶には、この時のはしけから繁久丸に乗りこむ金太郎の姿がやきついているそうです。
 


 これが、親子の最後の別れとなりました。

 この当時の日本には、同じような別れがたくさんあったことでしょう。
それから70年が過ぎました。
 亡くなった人の数だけ、さまざまな物語があったことを、
決して忘れてはなりません。』


                  岬人(はなんちゅう)

       

愛媛県原子力防災訓練よりふるさとを思う

2013-10-24 | ブログ


 一昨日10月22日(火)、原子力防災訓練が行われた。
「伊方原子力発電所において福島第一原子力発電所と同様の事故が発生した場合にそなえ、
発電所から30㎞圏内の住民の安全を確保するため、防災訓練が行われた。」

 三崎地域は、伊方原発から約20㎞。
 住民の2次避難として、船に乗り大分県へ避難することになっている。
三崎中学生たちも港に到着した宇和島海保巡視船たかつきに次々と乗りこむ。



 中学1・2年生と教員4名を乗せた船は、ロープをほどき港を離れた。



 沖には、海上自衛隊練習艦せとゆきが停泊。
沖へ沖へとしだいに小さくなっていくたかつき。



 20分ほど沖を航行し、帰ってきた子どもたちに感想を聞いてみた。
海保巡視船に乗ったことをドキドキしながら話す子ども、海からの景色をうれしそうに話す子ども。

 そんな中に次のような感想を言った子どもがいた。

「何だか、とても悲しくなりました。
もしこれが本当なら、この船に乗るということは、ふるさとにはもう帰れないということかもしれないんですよね。」


 この子の感性にぐっときた。
福島の悲しみを絶対にくり返してはいけない。

 ふるさとは守らなければならない。

                    岬人(はなんちゅう)