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一昨日の愛媛県原子力防災訓練。
第2次避難として、船に乗り大分県へ。
岸壁を離れ、船に乗り少しずつ小さくなっていく港。
そしてある女の子の心の内。
「とても悲しくなりました。原発事故で船に乗って港を離れるということは、もう2度とふるさとには戻れないかもしれないんですよね。」
この言葉を聞いて、脳裏にうかんだことがある。
70年前の太平洋戦争への出征の光景。
私の亡き祖父金太郎は、この港から出征した。
見送る家族。見送られる祖父。
祖父は、2度と見ることがないかもしれないふるさとの風景と、
そして2度と会えないかもしれない愛する家族を船の上からどんな思いで見たのだろう。
『父武久は、祖父金太郎と祖母ミチエの長男として昭和15年に生まれ、祖父鶴松からもたいへんかわいがられたようです。
翌年1941(昭和16)年、12月8日の真珠湾攻撃で、太平洋戦争が始まります。
すでに始まっていた日中戦争は、泥沼化しており、日本はさらに苦難の道を歩みます。
祖父金太郎のもとにも召集令状(赤紙)が届き、出征することになります。
生まれたばかりの娘(千鶴子)と3歳になった父、妻(ミチエ)そして体の弱い鶴松をのこしての出征は、
どんなに辛かったことでしょう。
当時3歳の父には、自分の父金太郎の記憶はほとんどないそうです。
ところが、出征の日の記憶が、断片的にあるというのです。
出征の日、平礒の村をあげて高台にあるお墓の四辻(よっつじ)まで見送られました。
親族や親交の深かった人たちは、さらに峠を越えて、
三崎の港まで行きます。
幼き父は、肩車をされて三崎港まで見送りに連れて行ってもらったそうです。
沖には、八幡浜から九州別府行きの繁久丸が止まっており、
そこまでは、はしけという小舟に乗って行くのです。
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ほとんどの人は、港の岸壁から見送るところを、
父は、「いっしょに行く。いっしょに行く。」
と言ってきかず、はしけに乗らせてもらい、繁久丸まで連れて行ってもらったそうです。
父の記憶には、この時のはしけから繁久丸に乗りこむ金太郎の姿がやきついているそうです。
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これが、親子の最後の別れとなりました。
この当時の日本には、同じような別れがたくさんあったことでしょう。
それから70年が過ぎました。
亡くなった人の数だけ、さまざまな物語があったことを、
決して忘れてはなりません。』
岬人(はなんちゅう)