11月27日那覇空港に降り立った。
新婚旅行以来20年ぶりの沖縄。
当時は感じられなかった様々な沖縄を五感で感じたいと思った。
まず那覇空港でお出迎えしてくれたのが、シーサー。
以下、シーサーについて、シーサー職人工房のブログを引用させてもらう。
「沖縄では、獅子のことをシーサーとよびます。方言では「しーし」とも呼びます。
シルクロードの時代、西域ではライオンのことを「シ(SHE)」と読んでいました。
中国から獅子文化が沖縄へ伝来して500年以上たっております。
作者は不明ですが1470年ごろに首里城の瑞専門に石獅子が対で設置したと記録にあります。
その頃はまだ、中国式にならって王宮やごく一部の貴族にしか獅子を設置していませんが、
首里王府時代の歴史書「球陽」に1689年、東風平(こちんだ)の冨盛村でたびたび火災があり、
こまった冨盛村の人たちは、蔡王瑞(さいおんずい)という風水師に見せたところ、
「富盛村を見下ろす八重瀬岳がフィーザン(火山)だ」というので、
その山にむけて獅子を設置したら火災はおこらなくなったと 記録にあります。
ちなみにこの東風平の冨盛の獅子は村落獅子の起源といわれておりますが、実際に今でも設置されています。
当時このように村落獅子を設置すれば、災難を防ぐと強く信じられ各地に村落獅子が広まります。
ここから権威の象徴や王宮での守護神であった獅子が村落へ普及し、
また当時禁止されていた民家の赤瓦使用が、1889(明治22)年に解禁されると共に、
屋根獅子として守り神シーサーが、全県へ赤瓦と共に普及しました。
昔のしまんちゅは、頑張って働いて稼いだら赤瓦屋根にしーし(シーサー)を載せる。
これが男の美学でした。
なぜなら、明治22年までは、それまで士族階級にしか許されなかった赤瓦屋根があるからです。
そんな歴史がある昨今ですが、若者を中心に赤瓦離れが急速に訪れています。
沖縄本島で現在確認できる村落獅子は、じつに30体。
長い年月であるいは戦争で獅子は風化していますが、
300年から400年もの間その村を見守ってきた石獅子をみると畏怖さえ感じます。
赤瓦が民家への開放と共に一般のお家にも屋根獅子としてシーサーがのります。
村落獅子として村に伝わり、いつしか民家へも守り神として、沖縄ではシーサーを乗せる風習が出来上がりました。
瓦屋根の普及と共に素焼きのシーサーが多く製作されています。
壷屋焼きを中心に数多くの シーサーが製作され「島常賀」(しまじょうが)
などシーサー作りの名人も生み出しました。
最近では瓦屋根も少なくなり門柱が出来始め、シーサーを対として門の上に設置。
またシーサーの顔を形どり面として壁に設置など、沖縄のシーサーも多種多様に変化しています。
中国から沖縄に伝来して500年以上、獅子文化は世界に類を見ないほど地域に根ざしていくのです。
がそれは、沖縄独自の文化と信仰、ノロやユタのようにシャーマン文化やもともとある魔除けと一緒に、
獅子文化が守り神として魔除けとして沖縄の人々に愛されてきたからではないでしょうか。
沖縄にとってシーサーとはゆるぎのない守り神であり、家族を想う大黒柱の象徴でもあります。」
なるほど。
シーサーという守り神が、沖縄の景観をつくっているのはまちがいない。
それほど人々に敬われ、愛され続けてきた。
その時の経過を思うと、感動のため息が出る。
故いもののすばらしさ。
思い返せば、佐田岬のふるさとにもある。
そんな歴史のカケラを大切にしていきたい。
岬人(はなんちゅう)
新婚旅行以来20年ぶりの沖縄。
当時は感じられなかった様々な沖縄を五感で感じたいと思った。
まず那覇空港でお出迎えしてくれたのが、シーサー。
以下、シーサーについて、シーサー職人工房のブログを引用させてもらう。
「沖縄では、獅子のことをシーサーとよびます。方言では「しーし」とも呼びます。
シルクロードの時代、西域ではライオンのことを「シ(SHE)」と読んでいました。
中国から獅子文化が沖縄へ伝来して500年以上たっております。
作者は不明ですが1470年ごろに首里城の瑞専門に石獅子が対で設置したと記録にあります。
その頃はまだ、中国式にならって王宮やごく一部の貴族にしか獅子を設置していませんが、
首里王府時代の歴史書「球陽」に1689年、東風平(こちんだ)の冨盛村でたびたび火災があり、
こまった冨盛村の人たちは、蔡王瑞(さいおんずい)という風水師に見せたところ、
「富盛村を見下ろす八重瀬岳がフィーザン(火山)だ」というので、
その山にむけて獅子を設置したら火災はおこらなくなったと 記録にあります。
ちなみにこの東風平の冨盛の獅子は村落獅子の起源といわれておりますが、実際に今でも設置されています。
当時このように村落獅子を設置すれば、災難を防ぐと強く信じられ各地に村落獅子が広まります。
ここから権威の象徴や王宮での守護神であった獅子が村落へ普及し、
また当時禁止されていた民家の赤瓦使用が、1889(明治22)年に解禁されると共に、
屋根獅子として守り神シーサーが、全県へ赤瓦と共に普及しました。
昔のしまんちゅは、頑張って働いて稼いだら赤瓦屋根にしーし(シーサー)を載せる。
これが男の美学でした。
なぜなら、明治22年までは、それまで士族階級にしか許されなかった赤瓦屋根があるからです。
そんな歴史がある昨今ですが、若者を中心に赤瓦離れが急速に訪れています。
沖縄本島で現在確認できる村落獅子は、じつに30体。
長い年月であるいは戦争で獅子は風化していますが、
300年から400年もの間その村を見守ってきた石獅子をみると畏怖さえ感じます。
赤瓦が民家への開放と共に一般のお家にも屋根獅子としてシーサーがのります。
村落獅子として村に伝わり、いつしか民家へも守り神として、沖縄ではシーサーを乗せる風習が出来上がりました。
瓦屋根の普及と共に素焼きのシーサーが多く製作されています。
壷屋焼きを中心に数多くの シーサーが製作され「島常賀」(しまじょうが)
などシーサー作りの名人も生み出しました。
最近では瓦屋根も少なくなり門柱が出来始め、シーサーを対として門の上に設置。
またシーサーの顔を形どり面として壁に設置など、沖縄のシーサーも多種多様に変化しています。
中国から沖縄に伝来して500年以上、獅子文化は世界に類を見ないほど地域に根ざしていくのです。
がそれは、沖縄独自の文化と信仰、ノロやユタのようにシャーマン文化やもともとある魔除けと一緒に、
獅子文化が守り神として魔除けとして沖縄の人々に愛されてきたからではないでしょうか。
沖縄にとってシーサーとはゆるぎのない守り神であり、家族を想う大黒柱の象徴でもあります。」
なるほど。
シーサーという守り神が、沖縄の景観をつくっているのはまちがいない。
それほど人々に敬われ、愛され続けてきた。
その時の経過を思うと、感動のため息が出る。
故いもののすばらしさ。
思い返せば、佐田岬のふるさとにもある。
そんな歴史のカケラを大切にしていきたい。
岬人(はなんちゅう)