喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

孫正義氏の留学体験2 ~1分1秒を惜しんで勉強した留学時代 ~

2017-07-29 | 教育
1分1秒を惜しんで勉強した留学時代

 ですからアメリカに留学して、毎日勉強の鬼になりました。
勉強の虫じゃないですよ。
そんな生易しいもんじゃない。
もう道を歩く時も風呂の中でも、食事をする時でも、寝てる時の数時間以外は全て勉強すると。
もちろん英語で、アメリカですので。

 家族が泣いている中で、同じ1つ違いの兄貴に中退してもらってまで支えてもらって、
血を吐いている親父に何とか喜んでもらいたい、お袋にも喜んでもらいたいということで発ったわけなんで、
1日1日のアメリカでの生活というのは、遊びほうけるというわけにはいかない。

 本当に今の自分が恥ずかしくなるぐらい、その当時は1分1秒を惜しんで勉強をしました。
 多くの学問で、アメリカで学んだことはたくさんありますけれども、でもそれ以上に学んだことは、 
そこではいろんな肌の色の人達が、皆明るく、夢にあふれ、希望にあふれ、
アメリカンドリームを掴もうとして一生懸命に仕事をしている。

 そして世界で最も進んだ文明や、社会システムを持っている。
 僕はそのことに感動し、いつか日本に帰ったら、必ず世界に誇れるような企業を日本に作りたい。
そして、いずれその会社がそれなりの規模になったら、世界中の人々に我々の貢献する仕事で幸せを提供したい。
 そういうことを誓って勉強しました。



あのとき支えてくれた家族に、少しでも恩返しがしたい

 ですから今振り返ってみて、あの時もし、あの16歳の僕がアメリカに、外の国を知らなかったら、
それを体験しなかったらと思うと、今の僕の人生は全然違ったものになってしまう。
 結果的には、父は無事体の健康を取り戻し、お袋も今は笑って過ごしていますし、兄貴も幸せにしております。

 あのとき支えてくれた、高校を中退して支えてくれた兄貴がいた。
そのお礼を何らかの形でしたい。

 僕が皆さんの支えとなる、ささやかな支援という形でしようと思っているのは、
皆さんの家族だとか兄弟が高校を中退してだとか、会社を辞めてまで、
あるいは何か特別なことをして皆さんの留学を支援するという、
そういう境遇の時は、それはそれでいいんですけども。

 先ほど大臣も、アルバイトに明け暮れてやっと1カ月留学ができたということですが、
皆さんが少しでも夢と希望にあふれ、多くの人々に貢献できる、
そういう道を提供できるのであれば、それが兄貴に対する恩返しであり、
親父やお袋に対する恩返しだと。
 少しでもそういう形で恩返しがしたいと。

 少しでも皆さんがこの素晴らしい、美しい、本当に愛しき日本に、
皆さんがこれから大人になって高い志で、皆さんの後に続く多くの若者に、そしてお年寄りに貢献できたら、
そのことに僕が少しでも間接的に皆さんを応援できたら、そういう思いで今回支援することにいたしました。

 ぜひ、ぜひこの機会を。
 人生でこの今の皆さんの若い時というのは、二度とやってきません。
 1日1秒を大切にしていただいて、このきっかけを大切なものにしていただきたい。
有意義なものにしていただきたい。
 心からそう思います。頑張ってください。




 ソフトバンクをここまで信頼される企業にされた孫さん。
留学に関して、このような経験があったのだ。
 留学をどんな思いで、どう生かしていくかが重要。
可能性や豊かさが広がる。



            岬人(はなんちゅう)

孫正義氏の留学体験1 ~高校を中退して家族を支えた兄に「恩返しがしたい」 ~

2017-07-29 | 感動
 官民協働海外留学支援制度「トビタテ!留学JAPAN 日本代表プログラム」
の第1期派遣留学生壮行会にソフトバンク代表の孫正義氏が登壇し、留学生達を激励しました。
 アイデンティティへの苦悩や留学時に兄と交わした約束など、自身の半生を振り返る16分間のスピーチです。


孫正義氏「番地のない住所に生まれ育った」

 皆さん、自分の戸籍の住所っていうもの、そこに生まれた由来みたいなものを気に留めたことがありますでしょうか? 
僕は馬鹿なことに、若い時に自分の戸籍の住所というもの、その意味をよくわかっていませんでした。

 大人になって20歳を過ぎてから、戸籍というものを区役所に取りに行く時に、その住所をふと見て、
「何で無番地って書いてあるんだろう?」って思ったんですね。
 僕の戸籍には「佐賀県鳥栖市五軒道路無番地」って書いてあったんです。

 普通、番地っていうと23番地とかいろいろ書いてあるんですけど、
そこを漢字で「無」って書いてあるんですよ。
「無し」という字ですね。

 その後でいろいろ考えて「なるほどそういうことか」って思ったのは、
佐賀県の鳥栖市の五軒、一軒、二軒、三軒というのは、道の広さ、道の道路の広さを表しているんですけれども、
そこの無番地というところで私は生まれ育ったということが、その1行の戸籍の住所に物語られてたということなんです。

 つまり日本に、私のおじいさん、おばあさんがどういう形で移民してきたのか、よくわかりません。
何か聞くところによると、漁船の底の裏に潜り込んで、日本に来たということのようです。

 嵐の中で沈没しそうな中で、やっとたどり着いた日本。
当然、住むところはないですよね。
 ですから、一緒に漁船の底に潜り込んで入ってきた何人かの家族が住み着いたところというのが、今でいうJR国鉄ですね。
鳥栖市の駅から200mくらい離れたところの、本来住所として存在しないところに、トタン屋根で無理くり住む。

 雨風をしのぐ板を貼って、そこに住んでいたと。
つまり本来許されていない土地に、許されていない形で勝手に住み着いたということになります。
そこから地を這うようにして生きて、何とか生き延びてきたというようなことなんですけれども。

 区役所としては住所を与えなきゃいけないんだけど、正式に認めるわけにはいかない。
したがって番地のない駅の脇の、本来国鉄が所有している所に勝手に住み着いている人だけど、
戸籍謄本を作らなきゃいけないので、番地を与えるわけにはいかないから「無」という形で、番地のない住所に生まれ育った。

 これが私の最初の戸籍であります。
そういう地を這うような生活の中から這い上がっておりますので、親父がしていた仕事もロクな仕事じゃないですね。
日銭を稼がなくてはいけないから、焼酎を作って売るとか、豚を育てて売るとか、
おじいさんが少し空き地を耕して野菜を作るとか、そんな状況でした。



父が倒れ、兄が生活を支える中でも留学を決意した理由

 私の父と母がそれから結婚し、私と兄弟が生まれたわけですが、本当にそういうなけなしの状況で育って、
何とか一般の人並みの生活ができるようなレベルまで収入が立つようになって、働き盛りの親父は僕が中学生の時に血を吐いて倒れました。

 病院に入院しました。
私は入院している親父がいて、中学を過ぎた頃に家庭は暗くなりましたよね。
 働き盛りの親父が倒れて、お袋は毎日泣いているという状況で、兄は高校の1年生でしたけど、
高校を中退して、家計を支えるようになりました。

 そういう中で、私は突然アメリカに留学すると言い出したわけですね。
 もちろん親戚のおじさん、おばさんは「お前は何ちゅうことを言うんだ」と。
父が血を吐いて倒れ、母は毎日泣いて暮らして、兄は家族を支えるために高校を中退して頑張っている。

 お前は贅沢にただ普通に学校に行っているという状況の中で、ましてや家族の家計も苦しいのに、
1人で楽しそうにアメリカに留学とはどういうことだ? 
親戚のおじさん、おばさんにこっぴどく言われました。

「お前は冷たいやっちゃな。何のために行くんだ?」

「それはいろんな夢がある」

「それはお前の個人の夢だろう? 家族を支えなきゃいけない、今1番苦しい時に、何でそんな勝手な夢を持つんだ?」

 僕は、実は兄貴に「兄貴ありがとう。家族を支えてくれてありがとう。俺はアメリカに行ってくる」と言ったんですね。
兄貴は「そうか、なんでや?」と聞くわけです。

 僕が兄にその時言ったのは「兄貴悪いけど、今家族を支えてほしい」と。
「我が家の、うちの家族の近い将来の問題。
それを支えるのは、俺は今兄貴に頼りたい。
けれど遠い将来の家族、遠い将来のもっと多くの苦しんでいる人達を支えるために、俺はアメリカに行く」ということで、行きました。



日本国籍が泣きたいくらい欲しかった

 皆さん、ここにいる人はほとんど日本国籍、全員そうだと思いますが、
僕は十数年前にやっと、泣きたいほど望んで日本国籍をいただくことができました。
 今でも自分が何人かよくわかりません。
23代前は中国に先祖がいて、そして韓国に渡って、3代前から日本に。

 名前は孫正義ですね。
韓国でも珍しい苗字なんですよ。
 日本ではもちろんあり得ない苗字です。
ですから、日本で在日韓国人ということで、何十万人かが心で苦しんでいる。

 いろんな意味合いで苦しんでいる人達がいる。
僕も子どもの時は、ふと自分で自殺したいと思えたこともありました。
それは国籍問題で悩んだからです。

 泣きたいほど望んで得た、生まれながらにして自動的に得た国籍ではなくて、
泣きたいほどに、何で自分だけは日本国籍じゃないんだ。
 友達がクラスにいる中で、何で自分だけ変わった状況なんだろう? 
恥ずかしい、隠したい、そういう状況の中で苦しんだわけですけれども。
 それほど、泣きたいほど望んで得た日本国籍です。


孫正義氏が「孫」を名乗る理由

 でも多くの同じような境遇の子どもたち、若い在日韓国人の人たちが悩んでいる。
僕は彼ら、彼女らに伝えたい。

「そんなことはないんだ。本当は国籍なんちゅうのはただの紙きれだ。
本当はどんなバックグラウンドであれ、みんな同じ人間だ。みんな1つの人間として尊いんだ。
みんな同じ可能性、夢を実現できる可能性を持っているんだ」

「誰々が優れていて、何々国籍だと劣っていると。そんなことはないんだということを、
俺は絶対に証明してみせる。自分の人生をかけて証明をしてみせる」と。

 だからあえて「孫」という先祖代々の、当時家族親戚はみんな「やすもと」という日本名を名乗っていましたけども
「僕は留学して帰って来たら、先祖代々の『孫』という名前を名乗って、自分の国籍の過去も堂々とカミングアウトする」。

「その上で、立派に同じレベルの人間として仕事をしてみせる。多くの人々に貢献してみせるんだ」
ということを心に誓って兄貴に
「俺は自分自身の幸せ、自分の家族を支えるということに加えて、もっと多くの苦しんでいる若い子ども達に、背中で夢を示したい」
ということを言って、アメリカに発ちました。

 続く

「トビタテ!留学JAPAN」とは、どんなプロジェクト?

2017-07-29 | 教育
 「トビタテ!留学JAPAN」とは、どんなプロジェクト?
久保まりなさんという経験者の声を聞いてみる。


 「トビタテ!留学JAPAN」とは、2013年に文部科学省を中心として始まった官民協働の海外留学支援制度です。
その大枠の中で、奨学金を出して学生を海外へ送るプログラムが
「トビタテ!留学JAPAN日本代表プログラム」というものです。

 2020年までの7年間で約1万人の高校生、大学生を派遣留学生として送り出す計画です。

 こんなプログラムに取り組むということは、官も民も海外経験のある人材を求めているということです。
 そういうわけで、トビタテ側から留学生に期待していることは、
「支援企業と共にグローバル人材コミュニティを形成し“産業界を中心に社会で求められる人材”、
“世界で、又は世界を視野に入れて活躍できる人材”として育成されること」、

 そして「帰国後は海外体験の魅力を伝えるエヴァンジェリスト(伝道師)
として日本全体の留学機運を高めることに貢献すること」です。
 私もそういう人になりたいです。




 利用者側からみると、「自分メイドの留学プログラムを応援してくれる」
というところも1つ大きな特徴だと思います。


 トビタテは以下の5つのコースに分かれています。

・自然科学、複合・融合系コース
・新興国コース
・世界トップレベル大学等コース
・多様性人材コース
・地域人材コース

 この中から自分の留学計画に相応しいと思われるコースを選んで応募します。
各コースごとに定員が決まっており、選考はコースごとに行われます。

 選考プロセスは2つです。
 留学計画書による書面審査に通ったあと、面接審査を受けます。
第一期の審査では、留学計画書はA4用紙4枚分が用意されていました。

 面接審査は個人面接が30分、グループ面接が約1時間でした。
面接官は協賛企業の人事部の方々です。

 

 良いところはなに?

1.お金がいっぱいもらえるゥ!

 良いところの8割はこれです。
お金がないと何もできません。
 トビタテからは、留学先の授業料(上限30万円)、毎月の生活費、渡航費の一部、
事前・事後研修の交通費と宿泊費、壮行会の交通費がいただけます。
 返済不要です。
 ちなみに生活費や学費の支給額は渡航先によって変わるので、自分で調べてみましょう。


2.留学計画への極厚サポート!
 トビタテの派遣留学生に選ばれた人は、留学前に事前研修を受けます。
1日か2泊3日か、大阪か東京か、選べます。
私は2泊3日の東京研修に参加しました。


 この事前研修の目的は、
「派遣留学生へトビタテの意義を理解する」
「派遣留学生同士のコミュニティ作り」
「留学計画のブラッシュアップ」の3つです。

 これらの目的のために、特濃のプログラムが用意されます。
すばらしいゲストの講演、自己理解セッション、そして留学計画のプレゼンと意見交換。
 文字にするとなんだか味気ないのですが、本当に濃いです。
ずっとワクワクしっぱなしです。
 たっぷりの刺激を受けたおかげで自分に対する考え方が変わり、
留学の軸が「政治と宗教」から「ファッション」に移りました。
 そこから留学計画もかなり変わりました。

 それもそのはず、これは一流の研修会社が数社タッグを組み、多大な労力を費やしてつくられたプログラムなのです。
 まあそんなわけで詳しい内容を公にすることは出来ないのですが、
この研修を受けられただけでも、トビタテ生になったかいがあったってもんです。間違いないです。
 ちなみに事前研修の前には、その期の全トビタテ生が参加する壮行会という催しもあります。




 まとめ
 最後にもう一度、トビタテの理念に戻りたいと思います。
トビタテは政界と経済界がタッグを組んで、海外経験のあるグローバル人材を育成しようという目的の元に始まったプログラムです。
 潤沢な資金、自分の価値観と向き合う機会、そこから留学計画をより良いものにする機会、
そして計画の実行へのサポート。
 なぜここまで手厚いのかというと、トビタテ生は日本から投資されている存在だからです。
留学によって得た経験を、色んなカタチで日本に還元する役割を担っています。

 私の大学の教授はよく「アンパン精神を大事に」と仰っています。外はパンでも中はあんこなのです。
 つまり海外の経験や知識を身につけていても、心に日本のアイデンティティを意識し続けなさいよ、
ということだそうです。


 この理念に共感し、自分オリジナルの留学テーマがある人にとって、トビタテは最高のプログラムとなるはずです。
特濃の留学を経験したいアナタ、トビタテに応募してみてはいかがでしょうか?」


留学という人づくり ~トビタテ!留学JAPAN~ 娘がトビタツ

2017-07-29 | 教育
 7月28日、三崎高校2年の娘のカンボジアへの留学が始まった。
この日は、松山空港から羽田空港、そして成田空港へ移動して宿泊。

 入念なチェックをして、必要最小限のものを旅行バッグにつめこむ。
重さは約17㎏。

 朝、隣の実家の神仏に手を合わせに行く。
ご先祖様、神様への感謝とあいさつ。
大きな出来事がある時、子どもたちがいつもしていることだ。
 そしていよいよ出発。


 途中、車の中で娘が言った言葉。
「お父さん、ありがとう。こんな留学に行かせてくれて。」
 ぐっときた。
「うん。気にするな。おまえの未来への応援や。
いろんなことを経験して、誰かにお返ししたらいい。」



 松山空港へ着くと、近くの駐車場が満車で、遠くの駐車場からキャリーバッグを運ぶ。
後ろ姿を見ても、やる気が感じられる。だいじょうぶだ。


 
 空港ロビーで、「蛇口からミカンジュース」で、和やかな写真を撮りながら、


 荷物を預け、そして保安検査所へ並ぶ。
 この日は、大勢の人で大混雑。




 見送り者はここまで。
 娘から「ありがとう。行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」

 最後の見送りをするために、屋上へ上がる。


 羽田行きの大型ジャンボが準備されていた。
本日はどの便も満席らしい。


 いよいよ、一人だけのカンボジアへの2週間の学びが始まった。
トビタテ! カンボジアへ、そして未来へ。

 
          岬人(はなんちゅう)