私の家には宮内庁長官の印が捺された表彰状がある。
宮内庁主催の歌会始めで、母の短歌が預選歌に次ぐ佳作に選ばれた時のものである。
賞状には、昭和五十年一月十日とあるから、もう36年も前、母は44歳、私が17歳の頃のことだ。
17歳と言えば遊び盛りの高校生。確か母が、宮内庁から何か届いただの、選ばれただの言ってたことは覚えているのだが、歌の内容を聞いてもよく分からなかったし、その時は「そうなんや」くらいのことしか感じていなかったと思う。
しかし、最近この賞状をまじまじと見つめていて、「考えたらすごいな、これ」と思うようになった。
なんたってあの宮内庁(当時の長官は宇佐美毅氏)の印鑑が捺してあるんだもの。
そんな思いから、今朝出勤前に改めて母にその句を読んでもらった。
「軽がると、舳先に人の踊りつつ、光る海面を祭り舟くる」
母の故郷は小豆島。海での祭りを思い出して書いたという。
説明はあえて聞かなかったが、島の方々が祭りを愛し人を愛していることも、海を生きる糧としていることも、素朴で実直な人柄も、質素な生活の中にも十分な豊かさがあることも、母がこの歌を書いている様子も、何もかもが手に取るように分かる。
母は、小豆島から高槻の旧家に嫁いできて、姑母小姑や夫の兄弟等、多くの人の理不尽や、貧乏に耐えながら私たちを育て、この歌を書いた。そして80歳になった今は、ひ孫達に囲まれて歌を書き続けている。
節約の癖が染み付いた、机に転がる両端が削られた短い鉛筆と、広告の裏を使ったメモ書きを見ていると涙が止まらなくなった。
あれから歌会始めの賞を上回る句はないようだ。
でも母よ、あなたの人生に勝る歌などありません。
※会社のブログの更新が忙しくこのブログをなかなか更新できていません。
せっかく読んでいただいている方には申し訳ありません。
落ち着きましたらこちらのほうへも転記するようにいたしますので、お許しください。
宮内庁主催の歌会始めで、母の短歌が預選歌に次ぐ佳作に選ばれた時のものである。
賞状には、昭和五十年一月十日とあるから、もう36年も前、母は44歳、私が17歳の頃のことだ。
17歳と言えば遊び盛りの高校生。確か母が、宮内庁から何か届いただの、選ばれただの言ってたことは覚えているのだが、歌の内容を聞いてもよく分からなかったし、その時は「そうなんや」くらいのことしか感じていなかったと思う。
しかし、最近この賞状をまじまじと見つめていて、「考えたらすごいな、これ」と思うようになった。
なんたってあの宮内庁(当時の長官は宇佐美毅氏)の印鑑が捺してあるんだもの。
そんな思いから、今朝出勤前に改めて母にその句を読んでもらった。
「軽がると、舳先に人の踊りつつ、光る海面を祭り舟くる」
母の故郷は小豆島。海での祭りを思い出して書いたという。
説明はあえて聞かなかったが、島の方々が祭りを愛し人を愛していることも、海を生きる糧としていることも、素朴で実直な人柄も、質素な生活の中にも十分な豊かさがあることも、母がこの歌を書いている様子も、何もかもが手に取るように分かる。
母は、小豆島から高槻の旧家に嫁いできて、姑母小姑や夫の兄弟等、多くの人の理不尽や、貧乏に耐えながら私たちを育て、この歌を書いた。そして80歳になった今は、ひ孫達に囲まれて歌を書き続けている。
節約の癖が染み付いた、机に転がる両端が削られた短い鉛筆と、広告の裏を使ったメモ書きを見ていると涙が止まらなくなった。
あれから歌会始めの賞を上回る句はないようだ。
でも母よ、あなたの人生に勝る歌などありません。
※会社のブログの更新が忙しくこのブログをなかなか更新できていません。
せっかく読んでいただいている方には申し訳ありません。
落ち着きましたらこちらのほうへも転記するようにいたしますので、お許しください。
母も神浦出身です。目の前に海がありました(5年ほど前に行った時は埋め立てられていましたが)。幼い頃、母の里帰りで母の実家に泊まった際、寝ている時にガサガサという音で目を覚ますと、家の中にカニがわさわさと入ってきていて驚いたことを思い出します。その目の前の海はもちろん、灯台のある白浜までよく泳ぎにも連れて行ってもらったものです。
神浦はほんとに素晴らしいところで、思い出すだけでとても懐かしく心が温まります。それに加えて素晴らしいコメントを寄せていただいたことが、これ以上ない喜びを与えてくれました。
10月16日伺うことができれば漕ぎ手の方にお声をかけさせていただきます。
是非お会いできますように。
ありがとうございました。
木船に太鼓台を載せ、舳先で軽やかに舞う2人の踊り手、掛け声にあわせて6丁(6本)の櫓を必死の形相で漕ぐ漕ぎ手、堤防に群がる見物客、ベストショットを狙うアマチュアカメラマン達、亀山八幡宮の秋祭りには欠かせないセレモニーとなっています。
昔は、三都(みと)半島に位置する吉野、蒲野(かまの)、神浦(こうのうら)の三地区が網船に太鼓台を載せて池田の馬場の浜辺まで運んでいましたが、今では、半島先端部の神浦(こうのうら)地区だけが、昔ながらの民俗文化を守り続けています。
私も神浦地区で生まれ、大学卒業後、故郷に帰り28年が過ぎました。
今も漕ぎ手の一人として毎年この船に乗り込んでいます。
私たちもいつまでも若くはありませんし、少子高齢化や人口減少が著しく、いつまで続けられるかわかりませんが、お母様の句を励みに一年でも長く続けていきたいと思います。
先日、知人がこのブログを教えてくれました。
句の素晴らしさもさることながら、私たち日本人が忘れかけている古き良き日本の心を見る思いがしました。
お母様の歌が、いつまでも詠み続けられることを願わずにはいられません。
小豆島ご出身の方でしょうか?貴重な情報誠にありがとうございます。
10月16日(日)、母の体調がよければ小豆島へ連れて行こうと思います。
小船に太鼓台を乗せ、浜に地づくと,舳先にいる衣装を着たおどり手2人が軽快に舞います。
すごく的確に情景を捉えていますね。
亀山八幡宮で検索して見てください。