築城者:九里(くのり)氏
築城器:永正5年(1508)頃
訪城日:2013.4.19
滋賀県中世城郭分布調査より
昭和初期の地図(戦後、引揚者の農地として殆ど干拓された)
お城の概要
岡山城は、
大山(標高187.7m)は、里山整備事業で(遺構は土塁、石垣、堀切、竪堀等は往時まま保全されている)と
頭山(標高147.7m)とに跨って築城され、主郭は頭山の山頂部に(工事により、遺構は破壊がひどく原型を留めないが、西側の竹林内は、削平地が…石・石積が残る)。
戦後、水茎内湖が埋め立てられるまで内湖に囲まれており【湖中の浮き城】となっていた。また水茎の岡として、歌にも詠まれる景勝地であった。
大山山頂部に、曲輪の遺構が良好に残存する。
大山と頭山の間の鞍部は、湖岸道路を通すために崩され、二つの山は切り離されている。
水茎の岡として、歌にも詠まれる景勝地。
頭山の麓に建つ城址碑
歴 史
岡山城は、南北朝期に、佐々木六角氏により、琵琶湖警護の支城として築かれたのが始めとされる。
本格的な築城は、永正5年(1508)に、室町11代将軍・足利義澄が、前将軍・足利義材(よしき)の入京によって近江に逃れ、伊庭氏、九里氏を頼って岡山城に入った頃と、考えられている。
永正7年(1510)、将軍に返り咲いた足利義材改め義稙(よしたね)の命により、細川高国、大内義興が岡山城を攻めるが、撃退する。
永正8年(1511)、足利義澄の嫡男・亀王丸(後の第12代将軍・義晴)が、城内で誕生する。同年、足利義澄は、京に攻め上るが、敗走して城に戻った後、8月、本城で死去する。
永正17年(1520)、伊庭貞説(じょうせつ)・九里浄椿(じょうちん)と、六角氏の間に不和が起り、六角高頼と細川高国の軍に攻められ、40日の籠城の後、開城する。
大栄5年(1525)、伊庭・九里氏の残党が城に立て籠もるが、黒橋(近江八幡市西の庄町黒橋川の河原)の戦いで六角氏に破れ、以後廃城となる。
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