城郭探訪

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水茎岡山城・頭山(主郭・石積) 近江国(近江八幡)

2013年05月02日 | 平山城

 

築城者:九里(くのり)氏     

築城器:永正5年(1508)頃

訪城日:2013.4.19

滋賀県中世城郭分布調査より

昭和初期の地図(戦後、引揚者の農地として殆ど干拓された)

お城の概要

岡山城は、

大山(標高187.7m)は、里山整備事業で(遺構は土塁、石垣、堀切、竪堀等は往時まま保全されている)

頭山(標高147.7m)とに跨って築城され、主郭は頭山の山頂部に(工事により、遺構は破壊がひどく原型を留めないが、西側の竹林内は、削平地が…石・石積が残る)。

戦後、水茎内湖が埋め立てられるまで内湖に囲まれており【湖中の浮き城】となっていた。また水茎の岡として、歌にも詠まれる景勝地であった。

大山山頂部に、曲輪の遺構が良好に残存する。

大山と頭山の間の鞍部は、湖岸道路を通すために崩され、二つの山は切り離されている

水茎の岡として、歌にも詠まれる景勝地。

頭山の麓に建つ城址碑

歴  史

岡山城は、南北朝期に、佐々木六角氏により、琵琶湖警護の支城として築かれたのが始めとされる。
本格的な築城は、永正5年(1508)に、室町11代将軍・足利義澄が、前将軍・足利義材(よしき)の入京によって近江に逃れ、伊庭氏、九里氏を頼って岡山城に入った頃と、考えられている。

永正7年(1510)、将軍に返り咲いた足利義材改め義稙(よしたね)の命により、細川高国、大内義興が岡山城を攻めるが、撃退する。

永正8年(1511)、足利義澄の嫡男・亀王丸(後の第12代将軍・義晴)が、城内で誕生する。同年、足利義澄は、京に攻め上るが、敗走して城に戻った後、8月、本城で死去する。

永正17年(1520)、伊庭貞説(じょうせつ)・九里浄椿(じょうちん)と、六角氏の間に不和が起り、六角高頼と細川高国の軍に攻められ、40日の籠城の後、開城する。

大栄5年(1525)、伊庭・九里氏の残党が城に立て籠もるが、黒橋(近江八幡市西の庄町黒橋川の河原)の戦いで六角氏に破れ、以後廃城となる。

  

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太尾山城 近江国(米原)

2013年05月02日 | 戦国山城

訪城日:2013.4.29

滋賀県中世城郭分布調査より

お城の概要

太尾山城はJR米原駅の東にあって、太尾山の東側をとおる中山道を眼下におき、同時に中山道と北国街道の分岐点をも押さえる位置にある。


 また、中世に市場で栄えた箕浦市場(米原市箕浦)も近く、まさに要衝の地で、江北の京極氏・浅井氏と江南の六角氏との戦いの中で、佐和山城や東に位置する地頭山城、および北に位置する顔戸城(一ノ瀬城)と共に重要な役割を担ってきたと考えられる。

 太尾山城は南北に延びる太尾山の尾根上に南城と北城のふたつの城域をもつ一城別郭の城である。
この城がある時は南の敵に対して機能し、ある時には北の敵を監視するなど、時代の変遷とともに果たす役割を変えてきたことが、こうした一城別郭の縄張りにも窺える。

 太尾山城へは青岸寺、および湯谷神社付近のいずれからも登ることができる。青岸寺と湯谷神社は距離にして200mほどしか離れておらず、どちらから登っても時間的にはあまり変わりはない。
青岸寺からは尾根道を経て北城に至り、湯谷神社からは谷筋から登り、北城と南城のほぼ中間点にある堀切に出る。

 南城、北城ともに、幅15~20mほどの尾根を利用して曲輪を連郭式に配し、土塁を巡らせているが、西側には土塁は認められない。西斜面は切り立った崖状地形のために防御の必要性がなかったのか。
 また、北城からは琵琶湖(西側)に展望が開け、天気良い日には素晴らしい景色を楽しむことができる。一方の南城からは雑木が茂り、眺望が利かないのが残念だ。

 北城の主曲輪北角には3m四方の三方を土塁で囲んだ一画がある、同様の地形が北之庄城(近江八幡市)にも観られ、烽火台と考えられる。

 太尾山城の縄張り

 明徳2年(1391年)の明徳の乱の時に米原平五が、応仁元年(1467)の応仁・文明の乱に米原平内四郎が在城したと伝わる。
 文明3年(1471)に岩脇駿河守近俊が戦死し、その子道秀が当城主となる。

 

歴 史

 太尾山城の原初のものは、在地領主の米原氏によって築かれたとされる。築城時期や規模などは不明だが、明徳二年(1391)の明徳の乱のときには米原平五が、応仁の乱のときには米原平内四郎が城主であったと伝えられる。ちなみに、地名は「まいばら」だが、米原氏は「よねはら」と読む。
 文明三年(1471)、美濃の斎藤妙春が近江に侵攻した際、「米原山」で合戦が行われたとされているが、これは太尾山を指すものと考えられている。この合戦で、岩脇駿河守近俊と「家子郎等数多」が討死した。『日本城郭大系』や『探訪ブックス[日本の城]』では、この近俊が太尾山城城主を務めていて、近俊の戦死により、その子である道秀が城主を継いだとしている。天文七年(1538)、南近江の六角定頼が北近江に侵攻してきた際には、六角陣営の永田伊豆守らが「太尾」に着陣し、太尾山城はこのとき六角氏の手中に帰したものと思われる。以後、太尾山城は六角氏と浅井氏の境目の城として、重きを成すことになった。天文二十一年(1552)、北近江の京極高広は太尾山城攻略を岩脇氏と同属の今井氏に命じた。しかし、太尾山城守将佐治太郎左衛門尉により、今井勢は追い返された。永禄四年(1561)、浅井氏に属した今井定清は、浅井長政の命を受けて六角氏の将吉田安芸守が篭る太尾山城に夜襲をかけた。城は落とせたものの、定清は敵と誤認した味方の槍に背後から刺されて死んだ。長政は、中嶋宗左衛門直頼を城将として入城させた。長政が織田信長と対立すると、太尾山城は再び前線の城となった。元亀二年(1571)、同じく最前線の城であった佐和山城を開城すると、宗左衛門も城を捨てて撤退した。これにより、太尾山城は廃城になったものと考えられている。

 太尾山城は、新幹線の停車場もある米原駅のすぐ東側の山の峰に築かれた城です。

眼下に包み込むように、北国街道米原宿の旧市街があります。

太尾山の峰は、東西の山肌は険しいものの、山頂の稜線は細く緩やかに南北に伸びています。太尾山城は、この稜線のうち、真ん中の最長部(北城)と南の峰(南城)を利用した、いわゆる「別城一郭」の城です。別城一郭と書くと、2つの城がお互いに補完しあって守っているように見えますが、両城とも連絡通路の入口を深い堀切で穿ち、連絡通路そのものは緩やかで長い要害性のない道ですので、両者はほぼ全く別の城のように機能していたのではないかと感じました。城へのルートは、湯谷神社の脇から登るものと、青岸寺の裏から登るものの2つあります。湯谷神社からの方が、おそらく当時は木戸が設けられていたであろう岩塊のせり出した濱田口を通り南城の堀切へ至る自然な登城路なので、登りはこちらからがおすすめです。
 近年発掘調査が行われたことから、遺構は割と明確に見受けられます。特徴としては、比較的高度な縄張りをもっていることと、土塁で四周すべてを固めた曲輪がなく、必ず最低どこか一辺が開いていることが挙げられます。係争の舞台となった境目の城ということから、先端の技術が取り入れらたのだと考えられる。

城へのルートは、湯谷神社の脇から登る

城へのルートは、青岸寺の裏から登る

 

 

 

 

湯谷神社

青岸寺(太尾山西麓にある曹洞宗の禅刹。)

創建は室町時代初期で、開基は佐々木道誉である。

室町時代の延文年間(1356年-1381年)、近江守護の佐々木道誉が不動山の山号と米泉寺の寺号で開創した。

本尊は佐々木六角氏頼が造立した「お腹籠観音」の名で知られる聖観音立像を胎内仏とする秘仏聖観音坐像。本堂裏の 築山林泉式枯山水庭園日本庭園は国の名勝に指定されている。

歴史

その後、戦国時代に焼失したが、慶安3年(1650年)、彦根藩主井伊直澄の命により

その後は下って江戸時代、彦根大雲寺三世要津守三和尚がたまたま当地を遊行していた折に、朽ちた小堂に祀られた観音像を拝し、ひどく心を痛めまし た。そして慶安3年(1650年)、再興を期して当山に入るも、時に敦賀の在人、伊藤五郎助が師の願行に打たれて尽力を惜しまなかったので殿堂、伽藍はす ぐに建立しました。しかし、五郎助は程なく明暦2年(1656年)に卒したので、守三和尚はこれを悼み、氏の功績を永く伝えたとして諡(おくりな)である 青岸宗天を以って寺名を青岸寺としました。

永正の初めに米泉寺が焼失して以来、150年余りの星霜を経て、再びこの地に復興された寺は、その後、大雲寺末として曹洞宗に属し、また井伊家三代直澄候からも寺領及び援助を賜ったので寺運は隆昌しました。

彦根大雲寺の要津守三が入山し、敦賀の伊藤五郎助の寄進により再興された。明暦2年(1656年)伊藤五郎助が卒したことを悼み、彼の諡(おくりな)である青岸宗天に因んで寺号を青岸寺、山号を吸湖山に改めた。寺は曹洞宗に改宗し、大雲寺の末寺となった。再興時に作られた庭園は彦根の玄宮園・楽々園築庭のために庭石が持ち出され、荒廃していたが、後に彦根藩士の香取氏により延宝6年(1678年)に再築された。

 

 

 

現地案内板

 太尾山城は、JR 米原駅東方の山上にある。米原の地は中山道と北国街道の分岐点にあたり、北国街道の米原宿として栄えた交通の要衝であった。

中世、江北を領した佐々木京極氏は、米原を確保するため米原氏に命じて太尾山に城を築いたという。その間の歴史は曖昧だが、山麓の湯谷神社には城主米原氏が寄進した灯籠などが残っている。太尾山城が確実な歴史に現れるのは、応仁の乱最中の文明三年(1471)、近江に侵攻した美濃の斎藤妙椿が「米原山」で戦ったときで「米原山」は「太尾山」のこととされている。

以後、江北の交通の要衝を押える「境目の城」として、浅井氏と六角氏との抗争、浅井長政と織田信長との抗争に際して重要な拠点となった。

浅井氏が江北に覇権をたてると中島宗左衛門が在城したが、織田信長と浅井長政との戦いのなかで廃城となったようだ。
城址は堀切を挟んで北城と南城に分かれ、「別城一郭」とよばれる構えとなっている。城域の広い北側が主体のようで、最高所の主郭を中核として南尾根に梯郭式に曲輪が築かれ、要所に堀切、塹壕を思わせる曲輪などが設けられている。主郭の北端には分厚い土塁が築かれ、北西尾根に土塁で囲まれた出曲輪、北東尾根に腰曲輪、堀切などが設けられ、美濃方面からの攻撃に備えた縄張りとなっている。

【歴史】
築城時期は不明ですが、鎌倉時代に佐々木氏が街道の監視の城として築いたとされます。鎌倉執権北条高時の時代のこの城は佐々木京極高氏(道誉)<1306~1373年>の支城であったようです。

その後、佐々木京極氏と佐々木六角氏、浅井氏と六角氏が争う城となり、永禄四年(1561年)には浅井長政が六角方吉田安芸守が守備するこの城を攻めたという記録があります。

元亀三年(1573年)に至り、織田信長の攻撃で落城しています。 <現地案内板より>

 

城は、標高254mの山頂にあり、北城と南城から構成される「別城一郭」と呼ばれる構造である。江北と江南の「境目の城」である磯山城や菖蒲嶽城にも同じ構造が見られる。
南城は、中央部の小さな山頂の主郭、その北に東側と北側に土塁が廻る副郭、一段下がって虎口を持つ腰郭が置かれ、その腰郭から北と東に伸びる尾根に堀切を設けて遮断している。主郭の南は一段下がって削平のやや不完全な郭が設けられ、その南端に土壇がある。その先の西尾根は落差を持った堀切により遮断されている。
北城は、北側と東側の一部に土塁を持つ主郭を中心に、北の下方に土塁囲いの郭を置き防御を固めている。主郭から東へ伸びる尾根筋は堀切と腰郭で遮断されている。主郭の南は腰郭、その下方に堀切を置き、更に連郭式に三段の郭が続き、二段目と三段目間に堀切が設けられている。
両城の間は、自然地形のまま残されている。
北城主郭からの眺望は素晴らしく、湖北・湖西への展望が開けるとともに、近隣の鎌刃城、佐和山城などの境目の城を望むことができ、また眼下に東山道や北国街道が通過し、要衝の地であることを体感できる。
近年の発掘調査では、北城・南城の主郭とその北の土塁囲いの郭で礎石建物跡が検出され、出土遺物からも恒常的な施設や生活が営まれていたとされる。また、門や櫓の存在を裏付ける記録も残り、領地防衛の重要拠点であったことが窺える。

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