明治初期まで「イカ」揚げ 東近江の伝統「大凧」
たこは昔、いかだった-。滋賀県東近江市で300年以上続く伝統行事「大凧(おおだこ)」は長く、「大紙鳶(いか)」と呼ばれていた。江戸時代の絵図には「沖野ケ原大いか」の記述が残る。いつ頃に呼び方が変わったか。26日の「東近江大凧まつり」を前に、東近江大凧会館などに残る資料から探った。
海外各地にもたこ揚げ文化は広がっており、名称の由来はさまざまだ。その多くが、日本と同じ様に生き物の姿を基にしている。
英語のカイトはトビ、フランス語のセーフボランはクワガタムシの意味。ドイツ語は龍、ベトナム語は鳥、スペイン語はすい星、ポルトガル語はオウムが由来になっている。いずれも宙を舞ったり、空とつながりの深かったりするものばかりだ。
一方、日本国内はタコ、イカの水中生物が由来。東近江大凧会館の鳥居学芸員は「日本は形から名前を付けたことが大きい」と説明する。「水の中の生き物が空を舞うのが面白い」。そんな日本人ならではの感性も、影響しているのかもしれない。
「大紙鳶(おおいか)之図」。呼び名が記された市内の資料で最も古いものは、1858(安政5)年の扇。100畳敷の大凧を揚げる様子を描写した絵とともに記されている。74(明治7)年の大凧揚げを描いた絵や版画には、はっきり「大いかの図」と明記される。
日本に、たこが伝わったのは平安時代とされる。尻尾をたくさん付けた形が、空を舞っているイカやタコのよう見えたことから、京都や大阪など関西で「いかのぼり」として定着したと言われる。
東近江市八日市地区では、江戸中期に男子出生を祝って始められたとされ、三つの村で競い合って規模を大きくしていった。当初は「いか」と呼ばれていた。東近江大凧保存会の山田敏一会長は「今、いかと呼ぶ人はほとんどいないが、先々代の会長や先輩は大いか、大いかと呼んでいた」と振り返る。資料に関しても、明治初期までの絵図や版画には「紙鳶」「紙烏賊」など「いか」と読む記載しか残っていない。
「たこ」の登場は82(明治15)年。中野神社(東近江市)所蔵の絵図に初めて「大凧」の文字が記された。ただ、同年に個人所有の版画には「大紙烏賊」の記載も残り、まだ両者の呼び名が混在する。明治20~30年代になると、新聞記事でも「大凧」と表記されるようになり、徐々に「たこ」が根付いていったと見られる。
東近江大凧会館の鳥居勝久学芸員は「明治になり、江戸の言葉や文化が全国へ浸透していくなか、関東の呼び名『たこ』が定着したのでは」と推測する。両者が混在した82年は、東近江の長い大凧の歴史の中でも、最大の240畳敷が空に舞った年。大きなイベントで注目度も高く、たこの呼び名が一気に広まった可能性が考えられる。
ただ、なぜ関東ではたこなのか。たこ研究の第一人者、故斎藤忠夫さんは著書などで「江戸時代、京都を中心とする上方のイカノボリに対し、江戸っ子の対抗意識から『たこ』と勝手に付けたのかも」との説を紹介する。
今年も東近江の誇る伝統行事は能登川地区の市ふれあい運動公園で開催される。青空を舞う100畳敷は、タコに見えるか、イカに見えるか。由来に着目して観覧するのも面白い。