簗瀬城石碑
別 名:若槻城
所在地:東近江市築瀬町 (旧:神崎郡五個荘町簗瀬 ) map:http://yahoo.jp/6oFt7g
区 分:平城
比高差:0m
現 状:雑木林(竹薮)・宅地
遺 構:土塁・堀・碑
築城期: --期
築城者:簗瀬氏
城 主:築瀬美作守・「晴富宿禰記」に見える若槻民部の城
目標地:報徳館
訪城日:2014.5.13
お城の概要
竹薮手前の住宅内の路地沿いに城址碑が立っている。
集落端に竹薮がありますが、竹が密集しており遺構不明。集落に一番近いところが伐採してあり、そこより2m程度の高さの土塁端が見える。
愛知川の左岸、和田山城のある。南へ約500m、梁瀬地区の南端の竹藪の中に川(大同川の取水口近く)で、幅5~6mの水堀に利用、西から北にかけて巡らされている。
城域は50m×50mほどで、竹が密集していいるが、幸いなことに一部竹が切り取られて、高さ2~3m、土塁が確認出来る。
この土塁は“コ”の字型に廻っているというが、宅地と隣接しており。竹が切り取られているのは、いずれ宅地下進む。
西側に“西屋敷” という小字名が残り、ここも城域の一部ではないかと考えられている。なお、城址碑は東側の住宅地の一画に建てられている。
歴 史
築瀬美作守の居城とされるが、「晴富宿禰記」などに見える若槻民部の城もこの遺構と考えられている。
「連成院記録」に、延徳四年四月条 「九里入道為大将千人ヤナ瀬庄若槻乃城寄之数々合戦」と記す
「後法興院記」に、若槻城 延徳4年3月26日の条「一両日以前江州敵蜂起、安富、若槻両城同時責之、及難儀云々」
後法興院記は、室町時代後期から戦国時代初期にかけて関白・太政大臣を務めた公卿近衛政家の日記。
城跡碑(個人宅)
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!