城郭探訪

yamaziro

梁瀬城(若槻城) 近江国(五個荘)

2013年05月17日 | 平城

 簗瀬城石碑

別 名:若槻城

所在地:東近江市築瀬町 (旧:神崎郡五個荘町簗瀬 )  map:http://yahoo.jp/6oFt7g

区 分:平城  

比高差:0m

現 状:雑木林(竹薮)・宅地

遺 構:土塁・堀・碑

築城期: --期

築城者:簗瀬氏

城 主:築瀬美作守・「晴富宿禰記」に見える若槻民部の城

目標地:報徳館

訪城日:2014.5.13

お城の概要

竹薮手前の住宅内の路地沿いに城址碑が立っている。

集落端に竹薮がありますが、竹が密集しており遺構不明。集落に一番近いところが伐採してあり、そこより2m程度の高さの土塁端が見える。
愛知川の左岸、和田山城のある。南へ約500m、梁瀬地区の南端の竹藪の中に川(大同川の取水口近く)で、幅5~6mの水堀に利用、西から北にかけて巡らされている。

 城域は50m×50mほどで、竹が密集していいるが、幸いなことに一部竹が切り取られて、高さ2~3m、土塁が確認出来る。
 この土塁は“コ”の字型に廻っているというが、宅地と隣接しており。竹が切り取られているのは、いずれ宅地下進む。

 西側に“西屋敷” という小字名が残り、ここも城域の一部ではないかと考えられている。なお、城址碑は東側の住宅地の一画に建てられている。

 

歴 史

築瀬美作守の居城とされるが、「晴富宿禰記」などに見える若槻民部の城もこの遺構と考えられている。

「連成院記録」に、延徳四年四月条 「九里入道為大将千人ヤナ瀬庄若槻乃城寄之数々合戦」と記す

「後法興院記」に、若槻城 延徳4年3月26日の条「一両日以前江州敵蜂起、安富、若槻両城同時責之、及難儀云々」

  後法興院記は、室町時代後期から戦国時代初期にかけて関白・太政大臣を務めた公卿近衛政家の日記。

城跡碑(個人宅)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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金堂城 近江国(五箇庄)

2013年05月17日 | 平城

 金堂地区の大城神社一帯が金堂城の跡である。

  金堂地区には細い道幅の道路が多い中にあって、大城神社前はひときわ広い道が走っている。この道は今も"馬場"と呼ばれている。また、大城神社境内の東側と北側には空堀と土塁がみられる。
大城神社境内北側の土塁大城神社境内北側の土塁

 金堂城は、観音寺山城の艮鬼門に祀られた大城神社境内辺りに築かれていたとされ、神社境内の北側にある土塁状の高まりがその名残と云われているとか。

金堂地区の大城神社一帯が金堂城に比定されている。大城神社境内の東側と北側に微かな土塁と空堀が残り、また、神社前の道路は道幅が広く、今も「馬場」と呼ばれている。


大城神社東側には、平景清(悪七兵衛)が通った古道とされる景清道が走っており、金堂城は間道を押さえる目的もあったようである。

近江商人の町並が整備され散策が楽しめる一帯である。

 大城神社は観音寺城の坤(ひつじさる)西南の方角にあたり、この裏鬼門の守護神として六角氏が勧進したと伝えられる。

大城神社横を通る影清道

 大城神社東側には、平景清(悪七兵衛)が通った古道とされる景清道が走っており、金堂城は間道を押さえる目的もあったものと考えられる。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

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可曲(かまがり)城(河曲城)    近江国(五個荘)

2013年05月17日 | 平城

 

 お城のデータ

所在地:東近江市五個荘河曲町254-2  (旧神崎郡五個荘町河曲) map:http://yahoo.jp/PyWe8v

別 名:河曲城

現 状:神社・集落・田畑

区 分:平城

遺 構:堀跡

築城期:

築城者:河曲氏

城 主:河曲壱岐守

目標地:河曲町公民館・河曲神社

駐車場:河曲町公民館

訪城日:2013.5.17 

お城の概要

北の新川、西の大同川、集落内の水郷に囲まれた里城

和田山城を擁する和田山の約500m南、可曲地区の伝承では、可曲神社の北隣が近江三能筆の一人、河曲壷岐守の居城であるとされる。

 この可曲神社の西約100mほどのグランドの小字名を “堀之内” といい、グランド東側(可曲神社辺り)を “堀之前” という字名から考えると、このグランドの周辺が可曲城跡と考えるのが妥当ではないだろうか。

 グランドの南側を流れる大同川がグランドの南西隅で北に流れを変える。この大同川を堀として利用した城であったことが推測される。
 なお、グランドの北方、六角氏の家臣清水源八の邸跡とされる小字清水には土盛りの塚が残っている。

歴 史

地元伝承では、近江三能筆の一人である河曲壷岐守の居城は、小字里ノ内の河曲神社の北隣だったとされる。

河曲城は、和田山城の南麓河曲集落にあった。河曲地区は北の新川、西の大同川、集落内の水郷に囲まれた里城だ。
近江三能筆の一人、河曲壱岐守の居城は河曲神社北側付近とされる。また、河曲氏との関係及び時期の前後等は不明だが、

  清水源八邸跡(小字源八) 清水四郎右ヱ門邸跡(小字清水)

佐々木氏の家臣、清水源八邸は本念寺西側の畑地付近、同じく清水四郎右ヱ門邸は新川と大同川が北で交差する南側付近であったと伝わる。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

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