城郭探訪

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唐崎城   近江国(大津)

2013年05月12日 | 平城

お城のデータ

所在地:大津市唐崎町

区 分:水城

現 状:宅地

築城期:南北朝期

築城者:新田義貞

遺 構:---

目標地:唐崎神社

訪城日:2013.5.11

お城の概要

唐崎を流れるおぼろ池川が江戸時代の古地図では「大堀池川」と表現され、「滋賀県史跡、名勝天然記念物概要」にも「建武の中興戦場壕跡」と記されている点に着目し、おぼろ池川が「城」の名残だとしている。

太平記の「敵陣を見渡せば無動寺の麓から琵琶湖まで幅2丈余りの空堀を掘り、物見やぐら300余カ所並ぶ」の記述から、この堀が新田陣が足利尊氏との戦いに備えて築いた「城」にあたると

 探索会では、松野さんが足利将軍と地域の歴史について解説しながら、おぼろ池川や、荒れた沼地で騎馬兵が役に立たなかったという合戦の舞台だった唐崎浜周辺などを歩く。

歴 史

軍記物語に登場する武将・新田義貞が築いたとされる「城」や「唐崎浜の合戦」の跡地

『細川両家記』に、唐崎城永禄12年9月23日の条

 「信長の帰国も不正候にて志賀・唐崎・三井寺に陣取給ふ」とある。   

唐崎城・・・推定地

さんこう

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、「唐崎文化協会史跡ガイドの会」資料

 本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!

太平記の舞台を探索 大津・唐崎一帯で催し

 新田義貞が築いた空堀の名残だとされる場所を紹介する松野さん(大津市弥生町)新田義貞が築いた空堀の名残だとされる場所を紹介する松野さん(大津市弥生町)

 大津市の「唐崎文化協会史跡ガイドの会」が5月11日、太平記の舞台となった場所を巡る探索会を同市唐崎一帯で開く。軍記物語に登場する武将・新田義貞が築いたとされる「城」や「唐崎浜の合戦」の跡地など、同会メンバーが古地図などから特定した歴史の足跡をたどる。

 郷土史を研究する同市唐崎3丁目の松野孝一さん(72)が、「足利将軍家記」などの史料を基に唐崎、坂本の歴史をまとめ、探索会を企画した。

 松野さんは、太平記の「敵陣を見渡せば無動寺の麓から琵琶湖まで幅2丈余りの空堀を掘り、物見やぐら300余カ所並ぶ」の記述から、この堀が新田陣が足利尊氏との戦いに備えて築いた「城」にあたると考察した。

 さらに、唐崎を流れるおぼろ池川が江戸時代の古地図では「大堀池川」と表現され、「滋賀県史跡、名勝天然記念物概要」にも「建武の中興戦場壕跡」と記されている点に着目し、おぼろ池川が「城」の名残だとしている。

 探索会では、松野さんが足利将軍と地域の歴史について解説しながら、おぼろ池川や、荒れた沼地で騎馬兵が役に立たなかったという合戦の舞台だった唐崎浜周辺などを歩く。

 当日は、午前9時にJR唐崎駅集合。先着30人。資料代の200円が必要。

唐崎城・・・推定地

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 

 


狐塚陣 近江国(余呉)

2013年05月12日 | 陣城

お城のデータ

所在地:長浜市余呉町新堂 map:http://yahoo.jp/OaFoCw

区 分:陣所

現 状:墓地

築城期:織豊期

築城者:毛受氏

遺 構:馬印形木版の説明板

陣 主:毛受兄弟(兄毛受茂左衛門、弟・毛受勝照(通称 勝助)、弟・庄兵衛の事)

訪城日:2013.3.19

お城の概要

 現状は墓地になっているが、馬印形の木版に説明板がある。

お城の歴史

柴田勝家の敗退 賤ヶ岳の合戦時、柴田軍の最終本陣

佐久間玄蕃の奇襲攻撃に合わせて、勝家は玄蕃尾城から狐塚まで本陣を進めていた。その数六千。

戦いが劣勢となるや勝家本陣の兵は離反者が相次ぎ、いつの間にか三千人に減っていた。
佐久間玄蕃勢が壊滅した今、秀吉勢4~5万人が勝家本陣に攻め寄せて来る。

毛受勝照は兵二百人で勝家を逃す時間稼ぎのため、勝家の馬印を譲り受け、敵に勝家の本陣と思わせ敵を一手に食い止める。
もはや勝照には如何にして死に花を咲かせるか。その事しか念頭になかった。

敵を何度か追い返すが、最後には敵の真っ只中へ自ら討ち入ったのであった。
勝照ら二百人は一兵余さず討死にしたと云う。毛受勝照 享年25。

賤ヶ岳の合戦時、柴田軍の最終本陣

 柴田軍攻撃

 佐久間軍、虚を衝かれる・・・(秀吉の大垣から5時間の大返し)

 春霞にその稜線を希薄にしている伊吹山が遠望できる。その夜、信じられない時間に、山麓と思われるところから麓の木之元まで羽柴秀吉軍の松明、篝火群が現れたのである。(3月20日夜である。早くとも21日が当時の常識だった。)

 守備についていた羽柴長秀の羽柴軍も加わって、そのまま秀吉軍は佐久間軍に襲いかかった。佐久間軍は戦線を固めるべく退きながら、よく戦い戦線を立て直そうとした。

 後狐塚に押し出している勝家本隊、別所山から茂山に進出していた前田利家等と戦線を結ぼうとした。しかし、柴田勝政軍が羽柴軍に攻められ、苦戦に陥った。それに支援するため、佐久間軍は返した。 

 前田利家撤退 しかし、賎ケ岳の戦いはここまでであった。前田利家軍の戦線離脱である。集福寺口に移動した。それによって戦いの帰趨が決定付けられた。佐久間軍は乱れた。本陣の柴田勝家からも佐久間、柴田勝政軍の総崩れに見えた。前田利家は羽柴秀吉の朋輩でもあったが、突然の離脱については諸説がある。ともあれ、前田利家は集福寺口から塩津街道(現国道8号線)を経て敦賀へ、木の芽峠を越えて越前府中(現越前市)に帰還した。

 狐塚から勝家本隊も後退した。柴田側の総崩れとなる。

 柴田軍北国街道を敗退 柴田軍は雪崩を打って崩れ、柴田勝家は北国街道椿坂峠を敗走する。この北国街道は、勝家が近江への軍用道路として整備した道でもある。そして越前北の庄(現福井市)まで羽柴秀吉の追撃を受け、城とともに滅んだのである。

  • 玄蕃尾城から狐塚に進出した柴田勝家本隊に、佐久間軍敗退の報が届き、秀吉軍の包囲網が迫ると、勝家方の兵は動揺し、逃亡するものも多く、兵力は減少し、もはや秀吉軍に決戦を挑むことすらできない状況に陥っていた。
  • 討死の覚悟を決めた勝家だが、家臣の毛受勝照が懸命に諫めた結果、側近とともに栃木峠を越えて越前に逃れた。
  • その間、「金の御幣の馬標」を受け取った毛受勝照は、身代わりとなって僅かの兵で秀吉の大軍を惹きつけ奮戦し、全滅した。
  •  毛受氏は、林谷山砦は土塁を400m連ねた、生々しい陣城に陣取った。

毛受兄弟の墓 map:http://yahoo.jp/FvqCf0

 

 勝家は、府中(武生)では、前田利家の元に立ち寄り、利家の裏切りを責めることもなく、永年にわたる利家の友誼を謝し、お市の待つ北ノ庄城に戻り籠城の準備をした。

狐塚本陣跡

位置:北陸道の上に掛る陸橋の西側

毛受兄弟の戦跡。

林谷山砦は土塁を400m連ねた、生々しい陣城で、中谷山は竪土塁が異様な迫力です。

賎ヶ岳合戦古戦場の林谷山砦、中谷山砦、茶臼山城、狐塚本陣


おまけ【丹生ダム建設の推移】の碑

参考資料:賤ヶ岳合戦記、滋賀県中世城郭分布調査

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 


目加田清綱 (*)(佐々木)・摂津守。比牟礼八幡宮神職。六角義賢の代の当主

2013年05月12日 | 武将

目賀田* (*)(佐々木)。南北朝期。南近江守護代。<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。分家に三井氏。>

目加田清綱 (*)(佐々木)・摂津守。比牟礼八幡宮神職。六角義賢の代の当主。事績不明。<後藤氏の被官・杉山藤八に追われ比牟礼八幡宮神職を奪われる。>

義峨* (*)(佐々木)。南近江守護代。<メガとかギガとか・・。><のちの蒲生家臣に儀峨忠兵衛あり。>


横山半喜長隆の墓(余呉)

2013年05月12日 | 武将

 【横山半喜長隆の墓】

高月町横山出身で前田利家の家臣。前田軍が戦わずして戦線離脱した際、殿をつとめ、敵に包囲されて吉祥院の境内で自害した。

名称:横山半喜長隆の墓

所在地:長浜市余呉町中ノ郷  map:http://yahoo.jp/yUtuxG

区 分:墓

時 代:天正11年(1583年)3月~4月

訪城日:2013.5.9

 

天文8年(1539年)美濃国多芸郡の豪族横山時隆の子として生まれる。多芸郡直江郷の杉弥左衛門の婿養子となる。清水城主稲葉良通(通朝)に仕えるも、同僚と争い、相手を殺害して越前に逃れる。大野城主金森長近に仕えた後、金森家を退き、越前府中で閑居して半喜と号す。

 

天正10年(1582年前田利長出仕し旗奉行となる。

 

天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いに出陣し殿軍を務めて戦死した。享年45。

 

  前田利家が、賤ヶ岳ノ合戦の折りに戦わずして戦線を離脱した時に、その殿を勤めていた武将です。

 

 利家達とは一緒に退く事ができず、敵の秀吉軍に包囲されて自害してしまいました。
 自害した余呉町の長谷山山麓にある吉祥院で、遺骸は丁重に葬られ供養されたそうです。このお寺が菩提寺となりました。 後に加賀藩主となった前田家により、半喜の子長知は重臣となり、加賀八家・横山家三万石の祖となりました。 数年前に余呉町教委の方々に吉祥院に案内して頂き、山の斜面にある半喜長隆のお墓にお参りさせて頂きました。遠く金沢で作られて持って来られたものだそうです。 その横には、維新後に男爵となった十二代目の御子孫が同時に建てた石碑もあります。

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。