城郭探訪

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賤ヶ岳 毛受兄弟  (2013年4月22日 読売新聞) ...

2013年05月07日 | 武将

相伝「棒の手」で毛受兄弟しのび(2013年4月22日 読売新聞) ...

豊臣秀吉が柴田勝家を破った「賤ヶ岳の戦い」(1583年)で戦死した勝家の家臣、毛受(めんじゅ)茂左衛門、勝助の兄弟の霊を慰める法要が21日、長浜市余呉町新堂の墓前で関係者によって営まれた。

毛受兄弟の法要の後、全長寺で奉納された「棒の手」(長浜市余呉町で)

 この日は兄弟の命日で、430回忌にあたった。参加したのは、新堂地区の住民による「毛受兄弟史跡保存会」(是洞(これとう)尚武会長)と、兄弟の出生地である愛知県尾張旭市の住民らで作る「尾張旭市毛受勝助保存交流会」(水野洋三代表)の人たち。

 毛受兄弟は、余呉町一帯で繰り広げられた賤ヶ岳の戦いで勝家の身代わりとなって戦死。その忠義心の厚さに、敵であった秀吉もたいへん感銘を受けたと伝えられている。

 新堂の保存会は10年ごとに法要を営んでおり、今回初めて尾張旭市の保存交流会も合同で参加した。

 法要後、関係者らは墓所の程近くにある兄弟の菩提(ぼだい)寺・全長寺に移動。兄弟の子孫が継承に関わってきたとされ、愛知県無形民俗文化財に指定されている武術「棒の手」が、「尾張旭市棒の手保存会・検藤流」のメンバーによって奉納された。


北之庄城(岩崎山城) 近江国(近江八幡)

2013年05月07日 | 山城

 

お城のデータ 

所 在 地:滋賀県近江八幡市北之庄町

別 称:岩崎山城

遺 構:石垣、堀切、土橋、櫓台

区 分:山城

標 高:251m    比高差:150m

築城者:佐々木経方の六男 乾六郎行範か?

築城期:室町後期

訪城日:2013.5.7


登城口~八幡城北の丸~ハイキングコース~  (他にロープウエイ~八幡城北の丸~ハイキングコース~)

八幡山城へのハイキングコースにノミの跡が

お城の概要

 北庄城は、八幡山城とは直線距離にして500~600mにあって、規模も大きな城であるが、いつ、どのような目的で築かれたかは全く判っていない。現地の状況を整理して、北庄城の築かれた年代と築城目的は?。

八幡山城の城下は南側山麓であるのに対し、この北之庄城は曲輪配置からしても北向きであることは明かである。
副曲輪の枡形虎口の形状、および規模から推察すると元亀~天正年間である。
副曲輪の虎口が三方向(北,西,東)に4つの虎口が設けられているのは、通常の城砦では考えられず、曲輪が異常に広いこと、および井戸代わりの池が7つもあることを考え合わせると、千~数千規模の軍勢が有事に備えて駐屯、若しくは待機用に築城されたのではないか。

お城の歴史

 『滋賀県中世城郭分布調査旧滋賀郡』 真野城に説明資料

 「真野城は真野氏で、湖東の豪族近江源氏佐々木経方の六男行範が(乾六郎行範)、乾氏の始祖となり蒲生郡北ノ庄に本拠おいた。その子孫乾氏の分流が真野郷を領して真野氏を称したという。」

  北之庄城は、八幡山城とは直線距離にして500~600mにあって、規模も大きな城であるが、いつ、どのような目的で築かれたかは全く判っていない。




「八幡山城の北の丸」から

北ノ庄城城域へ 

北庄城は八幡山城の築かれている八幡山(鶴翼山)と尾根続きの標高254mの山に築かれ、南北に延びる尾根に幾つかの曲輪連ねているが、大きくは2つの曲輪とみて差し支えない。
というのも、2つの曲輪が非常に大きく、他の小曲輪の存在を論じてもあまり意味がない。

 主曲輪は50m×50mほどの広さで、主曲輪の北側約30mほど下った副曲輪は100m×100mほどの広さを有し、いずれも周囲を切出しの分厚い土塁を巡らせている。
土塁の高さは高いものは5~6mをはかり、スケールの大きな中世城郭である。

 主曲輪は南北に虎口を設け、いずれも平虎口ではあるが、北側虎口は石積みの跡が確認できる。
 副曲輪の虎口は、北に2つ、西に1つ、東の1つと計4つの虎口が設けられている。このうち東側の虎口は枡形虎口で、土塁を石垣に変えれば、近世城郭の虎口そのままともいえる規模と構造をしている。

 副曲輪には7つ池と称される7つの池がある。おそらく飲料水用の井戸代わりに使われたのではないか。
 主曲輪、および副曲輪内部の削平はあまく、この城が長期にわたって使われていなかったことを窺わせる。

北之庄城

 

北之庄城は、八幡城のある八幡山の中央尾根続きにある。上段曲輪と、その北側に連なる下段曲輪から、南北に長い縄張りに形成されており、全体が土塁で囲まれている。上段曲輪は50m×50mの大きさであり、土塁で囲まれた全体は、南北の長さ約300m、東西の幅の広い部分で約100m、面積は1.5haある。
遺構は曲輪、土塁の他に、切岸、堀切、土橋、櫓台、狼煙台などがあり、樹木や下草がある程度伐採されているので、上段曲輪と下段曲輪内をほぼ見て回ることができる。 

城に関する文献資料は殆ど見つかっていないため、詳しい歴史は不明。
江戸時代の八幡山の絵図に佐々木六角氏の付城という説明が付けられているものがあるという。

 『滋賀県中世城郭分布調査・滋賀郡の城』 真野城の説明資料に「真野城は真野氏で、湖東の豪族近江源氏佐々木経方の六男行範が(乾六郎行範)、乾氏の始祖となり蒲生郡北ノ庄に本拠おいた。その子孫乾氏の分流が真野郷を領して真野氏を称したという。」

 」

城域の南端にある土橋 この土橋から、上段曲輪の虎口に入る道が続いている

上段曲輪の土塁 高さは5mを越える

主曲輪の土塁

現状は、矢竹の竹林!

下段曲輪の七つ池 円形の窪みに水が枯れることなく溜まっている。現状では窪みは六つであるが、七つ池と称する。

主曲輪虎口の石積み

下段曲輪の、内枡型となった大手曲輪

北ノ庄 八幡神社

右側から山道に入り

北之庄神社本殿の右側から山道に入り、25分ほどで主曲輪手前の堀切に掛けられた土橋に着く。この間、小さめの堀切と土橋、および堀切があるが、ルートによっては副曲輪の枡形虎口に出る可能性もある。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!