芦浦観音寺の山門
芦浦観音寺は大慈山と号し天台宗であるが、元亀争乱、および元亀2年(1571年)9月12日織田信長の比叡山焼き討ちの後も焼失を免れている。
信長もこの芦浦観音寺だけは格別に扱っていたといわれ。それも観音寺が支配する舟を利用する価値を見いだしていたと考えられている。
芦浦観音寺9代目の住職詮舜は秀吉の信任厚く、営事奉行,湖水奉行並びに地検奉行を兼ね、信長に焼き討ちされた比叡山の再建に大きな役割を果たした。瀬田唐橋の増築の管理や、伏見城築城の奉行までしたという。
現在では湖岸は3kmほど西になっているが、当時はこの辺りが湖岸であったという。観音寺はこの辺一帯における琵琶湖の航行権を握り、運上金をとっていたとされ、表門および外周を取り巻く堀は、寺というのは名ばかりで、まさに城郭である。住職兼湖水奉行としての格式を今なおとどめている。
その他の遺構として、貞享2年(1685)に永原御殿の建築物の一棟が書院(国指定重要文化財)として残されている。
なお、芦浦観音寺の拝観は予約制になっており、事前に申し込みが必要(TEL 077-568-0548)。拝観料は400円
所在地:連絡先 525-0002滋賀県草津市芦浦町363-1 map:http://yahoo.jp/QttcXW
拝観は予約制。 住職 西川浄海 電話 077-568-0548
区 分:水城
遺 構:堀、土塁、石垣
時 代:応永年間~江戸期~現在
開 基:聖徳太子の本願により秦河勝の開基
城 主:七世慶順
訪城日:2013.5.5
永禄11年(1568)6月、織田信長は寺領安堵の判物を発給し、同年9月には禁制を下した。天正8年(1580)9 月17日の寺領目録には観音寺法会分、欲賀郷・杉江郷こねん寺分・山賀郷(現滋賀県守山市)、駒井郷・長束結薗、出庭郷(現同県栗東町)、播磨田郷(現守山市)の計341石余のほか、佐久間定栄代官所分270石を記し、同年11月には信長から「寺領分蘆浦在所、一色斗代参百石余」と志那渡船の管理を認められている(同月7日織田信長宛行状)。
八世賢珍は天正13年(1585)頃から豊臣政権の代官を勤め(同年7月1日豊臣秀吉金子請取状)、九世詮舜は同15年から蔵入地代官を命じられており、文禄4年(1595)までに高島郡・愛知郡・蒲生郡・滋賀郡など3万8770石余を管轄した。
江戸時代も郡代官として、天和元年(1681)には野洲・高島・栗太・甲賀・滋賀五郡3万4297石余(「酉之年納郷帳」滋賀県立図書館蔵)、同3年には大和国5061石余も管轄した。湖上交通を管轄する船奉行も兼任した。
江州湖水船奉行之次第によると、天正2年(1574)織田信長によって七世慶順が任命されたという。
豊臣秀吉が設置した船奉行として名がみえるのは詮舜が初めで、以後江戸時代にかけて朝賢・舜興・豊舜・朝舜が勤めたが、貞享2年(1585)罷免された。
文禄元年1月には加子改を行い、同年2月には坂田・上甲賀・神崎郡の兵糧米3万2000石を大津へ回漕している。
本堂
「大安寺三綱記」によると
「観音寺 在栗太郡芦浦 僧房 二十八宇 公人一人、聖徳太子御本願、秦河勝開基、中興白雉二年(651年)法隆寺沙門覚盛法師、天平三年(731年)再建 為三論学派」
とあって規模も大きく三論宗に属していたことがわかります。しかし、その後中古の歴史は一切明らかではありません。
本寺の沿革がほぼ確実になるのは応永年間に京都普勧寺の歓雅が寺を再興して以降のこととなります。現在の城郭形式の表門はこの頃以降に出来たものと思われます。滋賀県下には山城を含めて1300の中世城郭が確認されているので、そのうちの一つであります。本寺の周りには内堀がありますが、積年の汚泥が蓄積して堀の体をなしていませんでした。しかし、平成14年から16年にかけて市役所の浚渫により内堀の機能が回復しました。
本寺が歴史上に重要な役割を果たすようになったのは織田信長以後であり、中興より数えて7代目の慶順が信長から琵琶湖の水運権を任せられるようになってからであります。その後13代の朝舜までの7代111年に渡り湖上の船の改役を勤めました。
特に豊臣秀吉の時代には8代目の賢珍、9代目詮舜と秀吉の信任も厚く、厚遇を受けて、また信長の比叡山焼き討ちのあとの再興にも尽力し、朝鮮出兵の文禄の役には九州の名護屋(今の佐賀県)にも下り、側近の用を務めました。また伏見城の作事奉行として竹木等の調達にも当たっています。
関ヶ原の合戦後、10代目の朝賢は徳川時代になっても湖水奉行を続け、永原御殿(今の野洲市永原)の作事奉行をはじめ諸処の御普請奉行も拝しましたが、貞享2年(1685年)に湖上船舶や土地の支配は徳川政権のリストラの一環として取り上げられることとなりました。歴史上の華々しい政治から撤退後は天台宗の一寺院として現在に至っています。往時の面影を残すのは表門と阿弥陀堂と書院と内堀のみであります。
芦浦観音寺 秘仏を初公開 草津 5月4、5日
草津市芦浦町の芦浦観音寺は、5月4日の本堂落慶法要に合わせ、秘仏の本尊十一面観音像を初公開する。豊臣秀吉の信任が厚かった9代住職が夢に見たという言い伝えのある仏で、西川浄海住職(64)は「本堂完成を機に公開に踏み切った」と話している。
■秀吉信任の住職が夢で見た…
同寺は聖徳太子の開基と伝えられ、室町時代に中興し、1591(天正19)年、琵琶湖の水運を取り仕切る船奉行を秀吉から任じられ、江戸前期まで天領の代官も務めていた。
西川住職によると、秘仏は高さ約30センチの小ぶりな十一面観音。秘仏をめぐっては、織田信長の焼き討ちにあった比叡山の再建に尽力し、秀吉の信任が厚かった9代目住職の詮舜(せんしゅん)が、百日の行を終えたあと夢の中で見たという言い伝えがある。仏像の寄託を受けている琵琶湖文化館によると、様式から桃山時代末ごろか江戸時代前期の作とみられるという。もともと檀家がおらず、一般拝観も行っていないため、公開されていなかった。
同寺は掘や石垣を巡らした中世の城館のような外観を保ち、国の史跡に指定されている。4日は落慶法要のあと、午後2時から開扉法要を執り行い、参拝を受け付ける。5日は市観光ボランティアガイド主催の一般公開(有料)があり、秘仏は同日まで公開される。一般公開の問い合わせは草津市観光物産協会TEL077(566)3219。