城郭探訪

yamaziro

しのぎをけづり 鍔をわり~近江の城、信長とかく戦えり~

2013年05月13日 | 番外編

開催期間:平成25年4月20日(土)~6月16日(日) 

 戦国時代、近江には多くの城が築かれていました。織田信長は、岐阜城を本拠としつつもたびたび近江へと出兵し、それらの城を攻め、勢力を拡大していきます。その過程において、姉川の戦いや延暦寺焼き討ち、大船の建造など、幾多の重要な事件が起きました。

 本展では、永禄11年(1568)から天正4年(1576)の、信長が本格的に近江へ侵攻を開始してから安土城築城に至るまでの時期を取り上げ、この間に信長と対峙した近江勢力の城がどのようなものであったのかを検証していきます。


(織田信長楽市楽座制札 (円徳寺蔵))

[主な展示資料]

● 織田信長百姓帰住制札 (円徳寺蔵)

● 一乗谷朝倉氏遺跡出土資料

  (福井県教育庁埋蔵文化財調査センター蔵)

  京極氏遺跡出土資料 (米原市教育委員会蔵)

  佐和山城遺跡出土資料 (滋賀県教育員会蔵)

  小谷城跡出土資料 (長浜市教育委員会蔵)

  宇佐山城遺跡出土資料 (大津市教育委員会蔵)

  上永原城遺跡出土資料 (野洲市教育委員会蔵)

  清水山城遺跡出土資料 (高島市教育委員会蔵)

  安土城図 (大阪城天守閣蔵)

(●は重要文化財)

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


膳所城 近江国

2013年05月13日 | 平城

膳所城址(膳所公園)

縄張りは有名な藤堂高虎が担当。城普請大名「藤堂高虎」


築城に際しての興味深い話として、関ヶ原の合戦のあとの守備として、逢坂の関を復旧するか、大津城を再興するかという家康の相談に、信任の厚かった本多佐渡守正信は、その策には賛同できないといって、瀬田の山岡景隆(かげたか)の城跡と大江の窪江城跡、そして膳所崎(ぜぜがさき)の3ヶ所に幟(のぼり)をたて、城地としての地勢を判断した結果、膳所崎が最適であると提案しました。
大津城は大津籠城の際、守りのもろさを露呈しました。瀬田の地では東海道を押さえても、湖上水運を押さえられないことから、膳所の地に
膳所城は、東海道の名勝として、屏風や図絵にも描かれ、街道を行き来する旅人は、「瀬田の唐橋 唐金擬宝珠(からかねぎぼし) 水に映るは膳所の城」と唄われるほどでの雄姿でもありました。

鳥瞰図は正保城絵図を参考にして描かれている。                                                                               

 湖水に突き出す半島状の地形を利用して本丸と二の丸が置かれていた。本丸の脇には出丸と呼ばれる付属的な郭もあった。                               本丸の広さは36m×45m、二の丸が65m×92mほどの大きさで近世城郭としてはささやかな規模である。二の丸の南には馬出しのような郭もあるが、正保年間より以降、ここに三の丸が設けられていたという。

 城域はそれほど広大なものではないが、図を一見して気が付くように、この城には多層の建造物が多く建てられていた。本丸にある天守は珍しい四層構造で、本丸にはその他に三重櫓もあった。また2層櫓も多く建てられているが、なんと言っても目立つのは、虎口周辺の2層構造の多聞櫓の存在であろう。2層の多聞櫓が枡形を形成している様は他の城ではあまり見られないものであり、もしこれが現存していたなら、そうとうに見ごたえのあるものであったと思われる。

本多家の「立葵紋」 膳所城跡公園

 膳所城跡碑

三の丸(外観復元)膳所天守跡

膳所城祉 三角点

芭蕉の句二の丸跡は、ヨシが群生。

「石鹿地蔵尊」

 城跡公園の一角にお地蔵さんが。 織田信長が比叡山を焼き払い坂本城を築城した際に石地蔵を礎石として使用。それが大津城、膳所城と使用され明治3年の廃城時本丸跡などから現れたものさんが祀られている。

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


箕作館(別名 清水城) 近江国(五個荘)

2013年05月13日 | 館跡

国道8号の(五個荘町清水鼻)の神崎中央病院と運送㈱間、南東方向に130m程進み

箕作城のある清水山山裾に至る。新幹線のガードをくぐった右手斜め前方が伝箕作館跡。

タケノコの止め山(鍵が懸ってたが、乗り越え攻略)

林道を進む

別 名:清水城

所在地:神崎郡五個荘町清水鼻

現 状:竹林・山林(山麓)

遺構 :曲輪・土塁・空堀

形式 :居館

訪城日2013.5.13

西部の林道に石垣墓石の輪塔

林道のタケノコ

西部の郭内空堀・土塁で

六角義賢が永禄5年(1561)に家督を子の義弼に譲り、自身は承禎と名乗り箕作城に移ったとの記録があるが、この箕作城が箕作館のことと考えられている。
また、佐々木定頼を祖とする箕作家系以外の舘跡ともされる。

 

観音寺城のある繖山と箕作城のある清水山が迫り狭隘となったところを、古くから東山道(中山道)が、現在は国道8号や東海道新幹線が通り、往古から交通を扼する重要な地点(安土町石寺と五個荘町清水鼻の間)であった。


中世には、その狭隘な地形を利用し、有事の際に通行を遮断できる大土塁が築かれていたとされ、その大土塁の痕跡が現在も所々に残り、東端に伝箕作館跡が位置していたとされる。


箕作館遺構は、清水山の西麓の伝箕作館跡から東に500m程山裾沿いに一段高く帯状に削平地が続き、横矢掛かりや石垣などが残っている。
伝箕作館跡は、遺構の西端に位置し、約60m四方の方形で東側に明瞭な二重の土塁と空堀が、南山裾側に土塁と空堀が残っている。そして、箕作館遺構の東端の山本地区には100m程にわたり石垣遺構が残っている。


  伝箕作館の東側の外側空堀は、巨大で東方(江北側)への備えを厳重にしているように思えるがどうだろうか。また、清水山山頂の(箕作城が詰め城)で、伝箕作館が佐々木定頼を祖とする箕作家系以外の箕作城の城守建部氏の居館跡とも?。

 

 今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。