城郭探訪

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金森長近砦 近江国2013.5.9

2013年05月09日 | 平城

 この史跡案内図の真下に【金森長近砦】

名称:金森長近砦

所在地:長浜市余呉町新堂

標高:255m  比高:75m

築城~廃城:天正11年(1583年)3月~4月

訪城日:2013.5.9

金森長近砦はこの尾根下にある山腹の平段を示しているようであるが、平段以外めぼしい地形は見あたらない。

■賤ケ岳の戦い、そして豊臣秀吉に仕える。
天正10年(1582)信長が本能寺の変で、明智光秀に討たれるという大事件が起こりました。この時の本能寺の変で嫡男、金森長則も討死にしています。信長亡き後の清洲会議の後、対立した羽柴秀吉と柴田勝家との賤ケ岳の戦いには、柴田勝家に加担して出陣しますが、前田利家らともに兵を撤収して秀吉に従う意思を示しました。この時、長近は秀吉に許しを請い剃髪して金森法印要仲素玄となったようです。

幾多の戦場を巡り戦国時代を駆けた武将、金森長近

前田軍の戦場離脱

 茂山で佐久間軍の後背を守り、秀吉軍を牽制する使命を担っていた前田利家、利長父子が突然塩津方面へ山を下って兵を退きあげたのである。

 勝家軍からすれば「裏切り」以外の何者でもない。しかも、前田軍の逃亡を見た金森長近や不破勝光らも一斉に戦場を離脱、このためこれまで動けずにいた余呉湖の北に布陣する秀吉軍も余呉湖畔に出撃して後背から佐久間軍に襲いかかり、佐久間軍は大混乱に陥ったのである。
 こうなっては佐久間軍の態勢の立直し不可能で、柴田勝政も戦いの中で不明となり、盛政も戦場を離脱し塩津方面に逃れざるをえなかった。

■金森長近の出自
金森長近は、一般的には大永4年(1524)美濃、多治見大畑で生まれたとされています。父は、大畑定近といい、土岐一門だったようです。幼名は、五郎八可近(ごろうぱち ありちか)といい当時の守護土岐氏の力が衰え争いごとが耐えなかった美濃を離れ、近江野洲郡(現守山市金森町)、「金森」へ移住したようです。金森は、京都にも近く一向衆が盛んな所で寺内町を形成しつつも商業地としても栄え、町が自立して武装されたところで、そのような独立独歩の強い地域で少年期を過ごしたようです。やがて地名にあやかり姓を金森と改名したようです。
 
■織田家に仕官して織田信長に仕える。
可近18歳のときに近江を離れて、尾張の織田信秀に仕えるようになったようです。やがて信秀亡き後、織田信長に仕え青年時代は主君、信長に付き添い尾張各地で転戦しました。弘治元年(1555)今川義元と戦う桶狭間の戦いにて功績を認められて信長の「長」の字を与えられ名を「長近」と改め、さらに信長の親衛隊、赤母呂集に追加されました。このとき長近32歳で、織田信長が戦国武将として急速に力をつけて行き「上洛作戦」「長篠・設楽原の戦い」「武田氏征伐」など主要な戦いに参加していきます。信長が天正3年(1575)越前の一向一揆の討伐の際には、長近もそれに伴い美濃口から進軍し平定後に、越前大野郡の3分の2を与えられました。大野で城持ち領主となった長近は、越前大野城を築城して城下町の整備も行いました。その後、信長の命で各地で戦い続けて大野の平定に力を注いだ12年間の間、忙しく各地を転々として戦っています。

■飛騨攻略と高山の町づくり
天正13年(1584)越中、富山城主の佐々成政は、飛騨の三木自綱と結んで秀吉に敵対する姿勢をとっていました。(富山の役)そこで秀吉は隣国の長近に三木自綱を討つため飛騨征伐を命じました。長近は、飛騨に攻め入り、飛騨は短期間で長近によって平定されました。その後、秀吉は長近に飛騨3万3千石を与えて越前大野から飛騨へ転封となり、高山城を築城して高山の町を建設を始めました。その後、秀吉の天下普請により各地を奔走し相変わらず多忙を極めます。

■そして関ヶ原の合戦
慶長3年(1598)秀吉が亡くなると、五大老の実力者だった徳川家康が、天下取りに動き出すと長近は信長以来の付き合いのある家康の方につくようになります。天下分け目の関ケ原の合戦も東軍に属し戦い、勝利の後、美濃上有知1万8千石を加増されています。金森氏は最終的に5万石余りの大名となり美濃上有知に小倉山城を築城して、高山を養子可重に譲り叡居生活に入りました。その後、慶長13年(1600)京都伏見にて卒去。85歳。墓は京都大徳寺塔頭、金龍院に入りました。長近は信長・秀吉・家康と時代の支配者に順応して戦国時代の判断を見誤ることなくゴールインした勝利者と言えます。また茶の道に通 じ、教養のある面も持ち合わせておりました。千利休や古田重然らに茶の湯をならい、文武ともバランスのとれた思慮深い武将だったと思います。茶の道においては孫の金森宗和によって金森家の茶道は大成を成し遂げます。
■歴代藩主と一門衆の紹介
長近の死後、金森家は、6代、107年間、飛騨を治めましたが、元禄5年(1692)出羽の国、上ノ山に転封となり、その後、さらに元禄10年(1697)に美濃国、郡上八幡に転封となって7代、頼錦の代に郡上での宝暦郡上一揆が起こり責任を問われて改易となります。本家は、取り潰しとなりましたが旗本の金森左京家は越前白崎にて幕末まで存続します。
遠望

 

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林谷山砦 近江国(余呉)

2013年05月09日 | 平城

 【毛受兄弟の墓】

柴田勝家の身代わりとなり、最後まで支えた毛受勝助家照と兄の茂左衛門兄弟を地元住民は今なお手厚く供養し、忠義義勇の士として語り継いでいる。

名称:林谷山砦

所在地:長浜市余呉町新堂

標高:255m  比高:75m

築城~廃城:天正11年(1583年)3月~4月

訪城日:2013.5.9

  賎ヶ岳合戦古戦場の林谷山砦見学会・・・講師長谷川博美氏(城郭研究家) 林谷山砦は土塁を400m連ねた、生々しい陣城で、中谷山は竪土塁が異様な迫力です。

 

  

    林谷山砦は、新堂地区の山麓にある毛受兄弟の墓塔の横から約20分ほど山道を登った位置にある。
 山の斜面にいくつかの曲輪があり、周囲には高さ1mほどの土塁が廻らされているが、曲輪の削平は甘く、その曲輪も林の中とあって砦は分かり難い。

 現地には「徳山五兵衛秀現の砦」,「毛受勝助、家照兄弟の砦」の標識が建てられているので、城郭遺構を探すよりもこれらの標識を探した方がよい

林谷山砦から秀吉軍の砦の望む林谷山砦から秀吉軍の砦の望む 

天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いに際して、柴田勝家軍の不破勝光,毛受勝助・家照兄弟,徳山五兵衛等が布陣したところで、行市山砦をはじめとして、高所に砦を築いた柴田軍の中にあっては最も低い位置に砦が築かれている。

 毛受勝助,家照兄弟は柴田軍の敗色濃厚となって、勝家が討ち死にを覚悟した際、「是にてゆいがひなき討死をなされ、名も知らぬものの手にかかり給はば、後代まで口おしかるべし。願くは北庄へ御帰陣なされ、御心しずかに御自害候へ(太閤記)」と北庄城へ落ちることを勧め、二人は勝家の馬印を持って羽柴軍を欺き、勝家が落ち延びるための時間を稼いだという。

 こうした毛受(めんじゅ)兄弟の忠義振りを称えて、明治9年(1876)滋賀県令籠手田安定(こてだやすさだ)によって、林谷山の山麓に両名の墓が建てられている。

毛受勝助,家照兄弟の砦毛受勝助,家照兄弟の砦

 

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茶臼山城 近江国(余呉)2013.5.9

2013年05月09日 | 平城

所在地 : 伊香郡余呉町国安・天神前

築城年 : 天正11年(1583)

形  式 : 山城(標高183m) 

遺  構 : 削平地、虎口、空堀

訪城日:2013.5.9

天神山砦は北東約500mの茶臼山砦と共に秀吉の命により築かれたものであるが、天神山砦は天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いに際して、羽柴秀吉が山路正国らに命じて築かせたもので、北国街道が山間の柳ヶ瀬から余呉の盆地に出る“のど首”にあたり、まさに北国街道を押さえる位置にある。

 縄張りは単純で、規模も大きくはないが、北国街道を南下してくる柴田軍を牽制する目的を果たすには十分と思える。
まむし草・・・削平地

チゴユリが咲いてました!

ササユリが

天神山砦は北東約500mの茶臼山砦と共に秀吉の命により築かれたものであるが、江越国境を越えて南下してきた佐久間盛政が標高660mの行市山に行市山砦を築き、前田利家が別所山砦、また不破勝光,毛受勝助・家照兄弟,徳山五兵衛等が林谷山砦と、天神山砦に対峙する位置に砦を築いた。

 これら柴田軍の砦は天神山砦と山続きである上に、柴田軍の砦はいずれも高所にあり、地形的に不利な天神山砦・茶臼山砦は引き払われ、堂木山砦まで退くことを余儀なくされた。

 茶臼山砦

賎ヶ岳合戦古戦場の茶臼山城見学会・・・講師 長谷川博美氏(城郭研究家)

 

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