城郭探訪

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公方屋敷 近江国(甲賀)

2013年05月21日 | 居館

 

 

所在地:甲賀市甲賀町和田 map:http://yahoo.jp/XqZwev

築  城:天正2年(1574)

築城者:和田惟政

初城主:足利義昭

区  分:居館

遺  構:土塁、井戸

標 高:207m

訪城日;2013.5.21

 

   

公方屋敷は和田川の西、和田惟政の居城・和田城の北方約800mにあり、三方を丘状尾根に囲まれた東西100m×南北150mほどの一帯としており、ほぼ中央部に大きな杉の木の下に案内板が建てられている。
 一方、滋賀県教育委員会が公方屋敷跡と称しているのは、この小さな谷を形成している南と北の丘の上としている。

 いずれも削平がなされ曲輪跡であったことが確認できる。南の尾根上の曲輪一帯は竹藪の中に櫓台も確認できる。

 この地形は六角氏の初期の居館であったとされる小脇館とよく似ており、中世における居館選地に共通性を見ることができる。
また、この屋敷跡の西側約300mに川を挟んで、公方屋敷支城と称される砦がある。

歴 史

公方屋敷は室町幕府の第15代将軍足利義昭が一時居したところで、当時の将軍は公方と呼ばれることから地元でも公方屋敷と伝えている。

 永禄8年(1565年)5月第13代将軍・足利義輝が三好、松永氏等によって二条御所で殺害された。永興福寺一乗院の門主足利覚慶(義輝の弟)は身の危険を感じ、細川藤孝、和田伊賀守惟政の助けを借りて奈良し、甲賀に亡命した。

 その後、和田氏の所領である野洲矢島(矢島御所)に移り、若狭の武田義統、越前一乗谷の朝倉義景を頼って流浪するが、朝倉家の家臣であった明智光秀の仲介により、美濃岐阜城にあった織田信長を頼って美濃へ移り、永禄11年(1568年)9月織田信長に擁立されて上洛。
10月18日、将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。

 その後、義昭は信長と対立することが多く、天正4年(1576年)毛利氏を頼って備後の鞆に亡命したが、室町幕府を再興することはできず、慶長2年(1597年)大坂で死去した(享年61歳)。
 

和田城郡(パンフレットより)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

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和田城 近江国(甲賀)

2013年05月21日 | 平山城

 

所在地:滋賀県甲賀市甲賀町和田字柞ヶ谷 map:http://yahoo.jp/MYdohZ

遺 構:曲輪、土塁、空堀

区 分:丘陵   

築城者:和田惟政  

築城期:不明

標 高:232m   比高差 30m

訪城日:2013.5.21

お城の概要

 甲賀地方は周囲を山で囲まれたという地形的な特質もあって独立性の高い地域です。

 中世においては、近江守護六角氏からも一定度自立し、郡中惣(ぐんちゅうそう)と呼ばれる在地領主の連合体が地域支配を行っていました。こうした政治体制を反映して、甲賀の城は皆同じような規模と構造を持っており、突出した大きな城は築かれませんでした。和田城もそうした城の一つです。

 和田城は甲賀市甲賀町和田の集落の周りを囲む小高い丘の上に位置しています。甲賀の城の特徴の一つとして、城が集落の内部に築かれるのではなく、集落近くの小丘陵に築かれることが上げられますが、和田城もそうした場所にあります。和田の集落周辺の丘上には、3つの支城が築かれており、和田の集落を守っていた様子がうかがえます。

和田城は、甲賀地方の有力在地領主であった和田氏の居城です。足利義昭を助け、後に織田信長に仕えた和田惟政はこの和田氏の出身です。

和田城は甲賀の城の定石通り、一辺約30mの土塁で囲われた方形の主郭を持つ城館です。しかしそれだけでなく、主郭の外側に帯郭状の二段の郭を持ち、背後の山との間を堀切で断ち切るなど複雑な構造を持っている点が特徴的です。

まだ発掘調査も行われておらず、詳しいことは分かりませんが、現状でも遺構がよく残っており、甲賀の城の雰囲気を味わうことのできる城跡。

 和田城郡(パンフレットより)

和田谷の中央を流れる和田川に沿って北から右岸に高殿城・公方屋敷・和田城、左岸に公方屋敷支城・和田支城Ⅲ・和田支城Ⅱ・和田支城Ⅰが並び、和田谷全体が集合体として大きな城であったと云え、その中で和田城は、支城群に守られた一番奥に位置している。

 城の縄張りは、丘陵の二つのピークを内、北側のピークに方形の土塁で囲んだ主郭を置き、西側に堀切を隔て二の曲輪を、更に丘陵鞍部を箱堀とも云えるに曲輪に仕立て、南側のピークの曲輪との間をで仕切りている。 主郭の西と北側にも比較的広い腰曲輪配している。

 主郭部は、約50m四方の方形で西側は下の曲輪との高低差約5~6m程ある土塁がある。 南西隅に虎口が設けられ、また北西隅には「天守台」との云われている櫓台がある。 主郭北側には高さは約1mの土塁が残り埋門形式の虎口があった。  

  

 

惟政の墓だとされる五輪塔(安土町浄厳院)惟政の墓だとされる五輪塔(安土町浄厳院)

歴  史

 和田城の築城年代は定かではないが、源満政を祖とする和田惟政がこの城を築いたと考えられている。

・・・・・信長公記・・・・

一巻 流亡将軍  一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。

 越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。

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 永禄8年、奈良興福寺一乗院を逃れた足利義昭は、和田惟政を頼り、和田城へと入る。

和田城の城主は和田伊賀守惟政と推定される。和田惟政は近江守護佐々木六角の軍奉行を務め、足利義昭を領内に亡命させ、細川藤孝らと共に将軍擁立に尽力した。

 惟政は雄琴城主(大津市)、芥川城主(大阪府高槻市)となり、キリスト教伝来で有名なフランシスコザビエルを保護し、彼を信長に謁見させた武将として知られている。永禄11年、和田惟政は義昭庇護の功によって摂津芥川城主となった。


  天正元年、足利義昭が織田信長に対して兵を挙げた時、最初信長に従っていた惟政は、のち義昭に属して摂津高槻城に籠もる。 しかし、信長に攻められ、中川清秀に捕らえられ斬られた。 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

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大原城 近江国(甲賀)

2013年05月21日 | 居城

大原城祉

所在地:甲賀市甲賀町田猪野  map:http://yahoo.jp/XljYfG                                                          旧:甲賀郡甲賀町

目標地点:

区 分:居城

標 高:200m  比高差:0m

現 状:宅地・田畑

遺 構:土塁・虎口・堀

築城期:室町期

築城者:大原氏(大原数馬)

訪城日:2013.5.21

甲賀の典型的な箱型の単郭であるが、南側には両側に土塁と門構えで当初の大手。東側は近世の破壊道(車・農道)として開口か

築城年代は定かではないが室町時代に、大原数馬によって築かれたと云われる。

方形の館で周囲に土塁が巡っており、現在も大原氏の末裔の大原宅(民家)として使用されている。

個人宅ですが、虎口の土塁が本当にりっぱで明瞭です。平野部の個人宅敷地で、訪城イベントであったため忍書(古文書)の「万川集海」も展示頂き拝見できました。

江戸時代の忍書「万川集海」を伝えてる。

尚、土塁の北東隅の鬼門には祠が祀られ、現在に踏襲されている

水堀でしょうか? 

立地

大原城は杣川と櫟野川の合流地に位置し、油日谷ののど元に位置し、又伊賀街道(近世の杣街道)に面し近世大原市場のに見られるように、陸上交通や谷川を利用した物流拠点の立地である。

周辺に方形の平削地の宅地割や地形が点在する。屋敷地が展開いていた可能性がある。水口の植城に似た配置・景観の可能性も残る。

遠望

甲賀五十三家は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

 大原家の甲賀五十三家の1つで、後の甲賀流忍術の中心となった家

近江伴氏からは、甲賀郡大原から発祥した大原氏をはじめ、上野氏、多喜氏らが分かれ、「伴・大原・上野・多喜」の四氏はとくに伴四党と称された。そして、大原氏からは篠山・勝井氏が分かれ、多喜氏からは山岡・馬杉氏が分かれ出た。

豊臣秀吉に仕えて水口城主、さらに駿河府中十四万石の大名に出世した中村一氏は馬杉氏の一族という。

他方、織田信長の四天王の一人に数えられた滝川一益も大原一族の一人であったと伝えられる。

 大原氏は伴四党の一家として甲賀郡油日村田堵野を本拠とし、南北朝時代には武家方として行動した。観応の擾乱が起こると、南朝に転じた足利直義に属し、正平五年(1350)、小佐治氏らとともに油日山麓の善応寺で挙兵した。南北朝の動乱を経て室町時代になると、甲賀衆は近江南半国守護佐々木六角氏の被官に組み込まれていった。
 応仁の乱以後の戦国時代になると大原氏は、大原中・大原市場・櫟野などを領有し、佐々木六角氏の重要な戦力として時代の荒波を生きたのである。六角高頼が将軍足利義尚の討伐を受けた長享の乱において、大原源三は高頼を支援して義尚が本陣を置く鈎を夜襲するなど大活躍をした。戦後、鈎において戦功が著しかった大原氏は甲賀二十一家の一に数えられ、和田・上野・高峰・多喜・池田氏と並ぶ南山六家の一として重きをなした。
 大原氏が最初に城を築いたのは、大字鳥居野の地であったという。しかし、のちに大原氏の氏神を城内に勧進し、新たに城を築いたのが篠山城だという。氏神はいまも鳥居野に鎮座する大鳥神社であり、その境内は大原城址ということになる。実際、大鳥神社の正面には壕跡を思わせる水路が流れ、境内の一角には土塁跡と見られる遺構が残されている。甲賀衆は「郡中惣」を組織し、それを同名中と呼ばれる同族組織が支えた。そして、大原同名中は、現代も年に一回、八月三日に大鳥神社に会されるという。そのときの参会者の装束は、昔ながらの羽織袴に帯刀という物々しさである。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城、Wikipedia

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木内城 近江国(甲賀)

2013年05月21日 | 居館

木内城跡碑(県道からすぐ)

所在地:滋賀県甲賀市甲賀町上野字才作  map:http://yahoo.jp/FGOes3

遺 構:曲輪、土塁、空堀

城 域:40m×40mの方形で単郭

目 標:県道4号線油日信号

区 分:平城

標 高:218m

訪城日:2013.5.21

お城の概要

 木内城は、杣川沿いの平野部に築かれた典型的な方形単郭の豪族居館だ。 県道沿いの竹藪の中に目印の城石碑を確認できる。県道4号線油日信号を東に約100m、北側の竹藪に車からでも確認できる。

城石碑辺りから城内への進入は容易で北奥の土塁・堀が見応えある。現在は、南側を除く三方に土塁と堀が残っている、主郭周囲の土塁は、高さ3mも厚みもある見応えのある40m四方の箱型の綺麗な遺構である。

南側は現在は城域に(県道で不明だが)南の杣川が急崖を堀に、周囲を土塁と堀構築、城としての要害性を固めていた。

遠望・・・東側から

歴 史

木内城は、築城年代や築城者など詳細なことは定かでない。

この地を領した上野氏居城とも。

江戸期に上野村の一部を領した旗本水野氏に関する遺構とも。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、

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上野城 近江国(甲賀)

2013年05月21日 | 平山城

上野城祉へ

右手の丘陵が城址で、この付近に道路が待避所的に広がっている箇所があります。ここから登ると主郭がすぐ上にあります。

所在地:甲賀市甲賀町油日字山崎 (甲賀郡甲賀町油日字山崎)  map:http://yahoo.jp/l82LwJ                                                                       

目標地:

区 分:平山城 

標 高:254m  比高差:30m 

現 状:山林

遺 構:郭・堀・土塁・井戸

築城期:戦国期

築城者:上野氏

駐車場:路上駐車(県道4号線バイパスの巾広所 入城口下)

訪城日期:2013.5.21

 

お城の概要

県道(バイパス)から急な斜面を5mも登るとその後はゆるい斜面となり、すぐに主郭の土塁が見えてきます。元々の単郭方形の主郭に拡張された兵站基地のような広い郭をもつ城。

主郭は岡の頂点にあり、甲賀の典型的な単郭方形の城という感じですが、滝川城・望月城並みの、規模の大きな、土塁も分厚いもので、土塁の外側を堀と、一部帯郭が巡っています。

 この主郭北側の帯郭にも分厚い土塁が残ります。さらに北側は10mほど落差があって、そこには運動場くらいの広い郭があります。

西側には分厚い土塁、東側には土塁は低いですが、屈曲した土塁と食い違いになった虎口形状のスローブが確認できます。広い郭から主郭を見上げると、高低差と土塁の重なりでけっこう壮観な感じがします。

    井戸遠望

歴 史

「江州佐々木南北諸氏帳」・・・佐々木氏の時代の近江における城名と城主名を書き上げたもの「大洞弁財天当国古城主名札」と共に郡史のも引用される。「江州佐々木南北諸氏帳」にも

 上野城主 佐々木蒲生随兵    上野主膳守

  々         箕作随兵    上野十内左衛門 とあり

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上野主膳守の城と!・・・・しかし、甲賀の一豪族の城の規模、縄張りとは少し違いが!

L型状の食い違いながら突出する嘴状虎口。天正前半期の頃織豊系城郭の特徴がみられ、織田政権により改修か、その影響を受けて築城されたと見える。主郭は、甲賀の単郭にⅤ・Ⅵ・Ⅶは増改築された居住性を重視いた郭(昭和62のバイパス工事前にⅦ郭発掘調査で小穴、竪穴、17世紀食器等出土している」)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、佐々木南北所氏帳、甲賀市史(甲賀の城)

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