所在地:滋賀県甲賀市甲賀町和田字柞ヶ谷 map:http://yahoo.jp/MYdohZ
遺 構:曲輪、土塁、空堀
区 分:丘陵
築城者:和田惟政
築城期:不明
標 高:232m 比高差 30m
訪城日:2013.5.21
お城の概要
甲賀地方は周囲を山で囲まれたという地形的な特質もあって独立性の高い地域です。
中世においては、近江守護六角氏からも一定度自立し、郡中惣(ぐんちゅうそう)と呼ばれる在地領主の連合体が地域支配を行っていました。こうした政治体制を反映して、甲賀の城は皆同じような規模と構造を持っており、突出した大きな城は築かれませんでした。和田城もそうした城の一つです。
和田城は甲賀市甲賀町和田の集落の周りを囲む小高い丘の上に位置しています。甲賀の城の特徴の一つとして、城が集落の内部に築かれるのではなく、集落近くの小丘陵に築かれることが上げられますが、和田城もそうした場所にあります。和田の集落周辺の丘上には、3つの支城が築かれており、和田の集落を守っていた様子がうかがえます。
和田城は、甲賀地方の有力在地領主であった和田氏の居城です。足利義昭を助け、後に織田信長に仕えた和田惟政はこの和田氏の出身です。
和田城は甲賀の城の定石通り、一辺約30mの土塁で囲われた方形の主郭を持つ城館です。しかしそれだけでなく、主郭の外側に帯郭状の二段の郭を持ち、背後の山との間を堀切で断ち切るなど複雑な構造を持っている点が特徴的です。
まだ発掘調査も行われておらず、詳しいことは分かりませんが、現状でも遺構がよく残っており、甲賀の城の雰囲気を味わうことのできる城跡。
和田城郡(パンフレットより)
和田谷の中央を流れる和田川に沿って北から右岸に高殿城・公方屋敷・和田城、左岸に公方屋敷支城・和田支城Ⅲ・和田支城Ⅱ・和田支城Ⅰが並び、和田谷全体が集合体として大きな城であったと云え、その中で和田城は、支城群に守られた一番奥に位置している。
城の縄張りは、丘陵の二つのピークを内、北側のピークに方形の土塁で囲んだ主郭を置き、西側に堀切を隔て二の曲輪を、更に丘陵鞍部を箱堀とも云えるに曲輪に仕立て、南側のピークの曲輪との間をで仕切りている。 主郭の西と北側にも比較的広い腰曲輪配している。
主郭部は、約50m四方の方形で西側は下の曲輪との高低差約5~6m程ある土塁がある。 南西隅に虎口が設けられ、また北西隅には「天守台」との云われている櫓台がある。 主郭北側には高さは約1mの土塁が残り埋門形式の虎口があった。
惟政の墓だとされる五輪塔(安土町浄厳院)
歴 史
和田城の築城年代は定かではないが、源満政を祖とする和田惟政がこの城を築いたと考えられている。
・・・・・信長公記・・・・
一巻 流亡将軍 一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事
義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。
越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。
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永禄8年、奈良興福寺一乗院を逃れた足利義昭は、和田惟政を頼り、和田城へと入る。
和田城の城主は和田伊賀守惟政と推定される。和田惟政は近江守護佐々木六角の軍奉行を務め、足利義昭を領内に亡命させ、細川藤孝らと共に将軍擁立に尽力した。
惟政は雄琴城主(大津市)、芥川城主(大阪府高槻市)となり、キリスト教伝来で有名なフランシスコザビエルを保護し、彼を信長に謁見させた武将として知られている。永禄11年、和田惟政は義昭庇護の功によって摂津芥川城主となった。
天正元年、足利義昭が織田信長に対して兵を挙げた時、最初信長に従っていた惟政は、のち義昭に属して摂津高槻城に籠もる。 しかし、信長に攻められ、中川清秀に捕らえられ斬られた。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城
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